2012-05-03
紛争の長期化ということ
シリアでの抗議行動が始まってからおよそ14ヶ月が経つ。昨年の3月末にダマスカスで聞いた声は「シリア人は分別を持っている。下手な行動は起こさない」というものだった。あの時はみんな落ち着いていた。
春が過ぎ、夏が来て、秋、冬・・・状況は悪化し、そして二度目の春も半ば以上を過ぎて、まだ出口は見えない。
一口に1年だ、14ヶ月だと時間の長さをいうのはたやすい。しかし、友人との話しのなかに、確実に「だけど」という逆接の接続詞が増えてきた。「元気?」と聞けば、「元気」だとか「まあまあね」と言った答えが返ってくるが、今はそれに「だけど・・」という一節が加わる。
「今年は冬の雨が多かったから、草花が咲き乱れて・・・」と伝えてきてくれた友人も、「だけど、それでも気が晴れない。こんなにたくさんの人が死んでいて」と続ける。
心配する私に「何とかやってるよ」という友人。「心配しないで。」と言いつつ、「今のところ、私の周りでは何もないわ」と言う。
そうなのだ。今、彼らにわかるのは、自分の周りはとりあえず、何とかなっていると言うことなのである。それ以上のことに、何をコメントすればいいのだ、という彼らの気持ちは、何も言わなくても伝わってくる。
娘の友人のGちゃんは、フランスでの医学部のディプロム第1次試験に受かって、第2次試験に向けて勉強中だという。「まあ、いいニュースでしょ?」と言うので、「もちろん、そりゃそうじゃない」と返事をしたが、彼女はそれほど喜んでいる風ではない。
昨年彼女がフランスで勉強をしていたときも、「シリアのことが心配で、フランスにずっといたいわけじゃないわ」と言っていた。今回、もし第2次試験に受かっても、状況がこのままなら彼女は喜んでフランスへ行く気にはなれないだろう。
彼女の両親は、彼女の将来を思って外に出したいのだろうが、出す側も出る側も、重いものを胸のうちに抱えたまま、になってしまうのだろう。
「将来」の話が、彼らと出来ないし、するのをためらってしまう。これが、長期化ということの一側面なのだ。なんと、得体の知れない、実体のない、しかしヒトを傷つけるものなのだろう。
だけど、それでも、彼らの話しのそこここに、前に進みたい気持ちがにじんでいる。
今、私に出来るのは、今日は元気?という挨拶だけなのだろうか。