2012-07-28
愛おしい祖国
友人のSさん一家は、レバノンにまず出るということになったらしい。第一の目的は息子のH君のフランス留学が決まったため、ベイルートのフランス大使館での手続きをしなければならないからだ。(ダマスカスのフランス大使館は閉鎖)
しかしそのあと、再びシリアに戻るのか、そのままフランスに家族で行くのか、まだ決めかねているともいう。フランスに行ったら、今までの蓄えを切り崩して生きていくしかない。シリアでは、建築士の夫の仕事は全くストップしていて、彼女の病院勤務の給料で生活している。医者であるから、他の仕事よりはまだ良く約1000ドルで、暮らしていけないわけではない。しかし、状況を考えると、毎月の給料と安全を天秤にかけてしまうという。
「ばかげた計算かも知れないけどね。それに国外に出るという考えはずっとあって、私たちにはまだそれをする余裕も若干あるけど、でも最後に煮え切らないのは、国を捨てるのが悲しいからなの。」
「カイロにも行った。同じアラブの国で、そこでもいいかも、とかも考えた。だけど、シリアは、そしてアレッポの街は特別の香りがある。なんて、素晴らしくて愛おしい街なのだと、今更噛みしめているの。この国が、この街がなんて大事なんだろう、って。」
この気持ちが彼女を、毎日銃声や砲撃の絶えない街になったアレッポに留めている。
ダマスカスの友人の言葉を思い出した。彼女は言う、「ダマスカスは母親のようなもの。ここを離れては生きていけない。ここを失くしては生きていけない。喪失の危機に瀕して、初めて、こんなにこの街を愛しているのがわかったわ。」
「ダマスカスは「歴史のある街」なんて言うけど、それって本の中のものじゃないのよ。古い街区の中を歩いて、そこの匂いをかいで、そこにいるスークのおじさんと話しをして・・・それが私たちの歴史なのよ。今ほど、ダマスカスが好きだって思ったことなかったわ。」
二人の友人の、自分の街への思い。これが、シリアを作るものなのだ。しかし、そのために、やはり犠牲の血を捧げなければいけないのだろうか。
フェースブックを開けると、「三日間連続の砲撃、110発が、僕の地区に打ち込まれています。3日連続停電、15日間断水。先生、神様に祈っていてください」イドリブのアリーハにいる教え子の、おそらく停電の合間に書いたのであろうメッセージが、残っていた。
2012-07-25
自由シリア軍
甥っ子のハムドゥーが現地の勤務時間にチャットをしてきた。おや、と思い、話し始めると、「今、考古局だけど、今日は、逃げてきたよ」という。
びっくりして、何があったのかと聞くと、街中の考古局の一支部にいたら、近くの地区(バーブ・アル=ハディード)で、バスが炎上しだしたという。銃撃も遠からずのところで始まり、また上空には軍機が飛んでおり、アレッポの半分くらいの地区で衝突が起こっている感じだという。しかし考古局のあたりは、別世界のように普通なので、まずはここに「避難」したらしい。
衝突に関しては、もう話したくないようだった。生活は、と聞くと、またガスの価格の話しになった。この数日、再び狂気の値上がりで、昨日、今日で4500ポンドになったという。つい1週間前に、3200ポンドだと聞き、仰天していたのに・・・。ラマダン月に入り、断食後の食事には、少なくとも火を使って料理したものを食べたいものだ。しかし、ガスがないと・・・。
この値段が上がった、あの値段が上がったという話しのあとで、「結局僕はなにをすべきなんだか。自由シリア軍に入るべきか?」などと言い出した。
何を言ってるの、と言おうとしたら、「M叔父さんも自由シリア軍に入ったんだ。」という。え、だって彼はトルコに逃げたんじゃ?と言うと、トルコに逃げたあと、警察を離脱したことを表明して、向こうで自由シリア軍に入ったと言う。
その他、彼の知り合いは、ずいぶんたくさん自由シリア軍に入っているらしく、一種の「自由シリア軍に入る雰囲気」が流れているようである。しかし、戦闘が激化する中、自由シリア軍に参加するのは、冗談ではない。まさしく、命の問題になる。日常生活をしていても、命の保障はないような事態になっているのだから。
彼らの「自由シリア軍」への参加の思いは、単なる思い付きではないと思う。国際社会とやらは、双方に武器を納めよ、と言う。そして、私は、血を流さないで、と言う。しかし、人々は現地の切実さの中で、やはり何か決断を迫られる。
これが、「戦闘が始まった」ことの本当の意味なのか。
ハムドゥーの言葉に返す言葉が見あたらなかった。
ぼうっとしていると、「今日はもう仕事にならないから家に帰る。またね」と言って、彼はオンラインから消えた。
2012-07-22
ついにアレッポも
ラマダン月が始まった。今年のラマダンは、シリアにとって、去年以上に厳しいものになりそうである。
まず、ラマダンの始まりが問題であった。サウジが20日にラマダンの始まりを発表したが、シリアは、イランと歩調を合わせて、21日に始まりを設定した。これに反対する人は、20日から断食を始めた。そうすると、20日に断食を始めたかどうかで、政府側、反政府側の活動家というレッテルを張ろうする向きが現れた、という。
教え子のWが、これを嘆いた。確かに、この行為は反対の表明ではあるかもしれないが、だからと言って、急に急進的になったわけではない。また逆もそうである。なんで、すべて二つに分けるのか。無用な分類であると。
しかしながら、20日から、アレッポでも、事態は急速に悪化しだしたようだ。
ある教え子は、30台の戦車が競技場前の通りを通っていった、という。また、先のWの父親の事務所は、アレッポでも一番状況の悪い地区にあるが、昨日事務所に行ったら、銃弾の痕が残っていたとも聞いた。そして政府軍が、アレッポ、サラーハッディーン地区にいる戦闘員たちに、24時間の猶予を与えた、という。
猶予、つまり、その間に投降しなければ、徹底攻撃ということだろう。
そして、先ほど、友人のSさんからのメッセージで、アレッポ空港が閉鎖され、パリからカイロ経由でアレッポに帰る予定の娘のGちゃんが、カイロで足止めを食らっていることを伝えてきた。
教え子の女の子は、昨日は朝からずっと銃声や砲撃の音が聞こえるといって、家に閉じこもっているといっていた。
ついにアレッポでも。でも、まだ信じられない。
こめかみのところが痛い。昨夜から今日にかけてのアレッポからのニュースが、私を、まだ夢を見ながら、早くこの夢から覚めたいと思っている、そんな状態にしている。
聖なるラマダンに祝福あれ。
2012-07-17
帰還
一昨日、捕まって刑務所に入っていた2人の甥っ子が帰ってきたというニュースが来た。
伝えてくれたのは、やはり甥っ子のハムドゥで、よかったね、というと、「それが・・まあ帰ってきたんだけど、めちゃくちゃやせて帰って来たんだ」と言う。
「骨と皮っていうのはあのことだ。あいつらに比べたら、ヤヨイなんかずっと太ってることになるくらい。」なのだと。
そして、「もちろん会いに行ったけど、問題は、あいつら、なんだか腑抜けみたいになってたんだ。ボーっとしてなんだか、頭がヘンになったみたいな感じだった」という。
ショックだったが、それはそうだろう。短期間にそんなにやせて帰ってきたと言うことは、この一ヶ月ちょっとの間に、よほど厳しい環境にあったのだろうから。精神的にもダメージが大きいことも想像がつく。
帰ってきた二人のうちの一人は、高校時代、歴史に興味を持ち始め、夫がよく「講義」をしに彼の家に行っていた。
彼の家、すなわち義理の妹の家はアレッポ郊外の村にある。広い庭やベランダがあり、夏の宵には夫はそこで「戸外レッスン」をした。アレッポの夏は、昼間の暑さは厳しいが、夕方になると、素晴らしく涼しい風が吹く。ましてや、彼女の家は田舎家で、寒いくらいに風が吹くこともある。そういう時は、寒がりの私は、彼女の持ってきてくれる毛布に包まって、夫の「レッスン」を聞いた。
甥っ子たちは、元来非常に元気のいい、素朴な田舎の青年たちだ。力仕事もいとわない、強健な体を持っている。その彼らが、今、怯えたように、やせた体で、あの風の中にいるのを想像するのは、なにか悪夢を見ているようである。
それでも、義理の妹は、慣習的な意味もあり、帰還祝いの昼食会をするようだった。アラブの美徳でもあるのだが、彼女は人を「招待」をするのが好きである。大変なのよ、などといいつつ、呼ばれていくと、いつも食べきれないほどの料理を勧めてくれた。だけど、今回、彼女はどんな気持ちで招待の料理を作っているのだろうか。
おそらく、しばらくしたら、若者たちは体力を取り戻すだろう。精神的にも、落ち着くだろう。しかし、この一ヶ月間に起こったことを、そう簡単に忘れることは出来ないだろう。
彼らだけではない。今、シリアでは、彼らのような例は五万と起こっているに違いない。しかし、それは空恐ろしいことではないか?何かが揺れている。武力抗争の影で、もっと恐ろしいことが起こっている。
ハムドゥはさらに伝えてきた。「また、今日も村の人が2人死んだ。兄弟でね。石切職人だよ。車運転してたら、撃たれたらしい。ヤヨイも知ってる人たちだと思うよ」
「おじさんは、死んで、こんなこと見聞きしなくてよかったのかも知れない。あれで、よかったんだ。僕もほんとに明日がわからなくなった」近頃は、ハムドゥもすぐに弱音を吐く。
他の人に言えないのだから、私が聞くことで少しでも吐き出せるならと、思う。でも、停電が毎日8時間である今、チャットも最後には駆け足になる。
(追記)
ガスボンベはついに3200ポンド(約6000円)になってしまったという。つい2週間前は2200ポンドだと言っていたのに。ちなみに私が去年の4月、最後に買ったときは、手数料を入れて350ポンドだった。
2012-07-07
奈々子の友達Sちゃんの決断
6月の初めだっただろうか、娘の奈々子が「お母さん、Sちゃんがホムスに仕事場を変えるらしいよ」と言った。え、と一瞬耳を疑った。
Sちゃんは、ホムスに両親の実家がある。数年前、奈々子が他の友達と一緒にベイルートに言った際、行き、帰り、その実家で世話になった。現在も、他の親戚も含めてまだホムスに残っているとは聞いたが、わざわざ今、この時期に彼女が行かなくても。
しかし、もう決めてしまったようだった。彼女は私たちが2月にシリアを離れるときに、シリアの現状を知ってほしいと、手紙を託してくれた。あのころから思いつめてはいたことは知っていた。しかしこの決断・・・・。ホムスの一部は壊滅的な状況だが、まだ街のなかでも大丈夫なところはあるのだろう。だけど、アレッポよりは、かなり状況は悪いのは周知である。
そのあと、彼女は、何日かたって、フェースブックに「ホムスに着いた」という知らせを出したらしい。それ以外のことはわからない。仕事といっても、まともに出来る状況なのか?
女医のSさんとスカイプをしたときに、彼女は言っていた。「勇敢なのか、気違い沙汰なのか・・・、でも彼女は敢行したのよね。」と。前の彼女なら、絶対に反対意見を言ったであろう。しかし、今はSさんでさえ、彼女の決断を頭から否定しない。事態がそうさせていることが、Sさんのある種の沈黙から読み取れる。
彼女を送り出した親御さんはどうなのだろう。Sちゃんの父は退役軍人である。Sちゃんが反体制デモに行くことを怒っていたという。しかし、今回、彼はどのようにして彼女を送り出したのだろうか。
お父さんたちの時代はずっと黙ってた。私たちまでで黙りはおしまいなのよ。2月に奈々子が会ったとき、彼女はそう言っていたらしい。
自分の娘の決断が、もし、このようなものにならざるを得ないとき、私は何を考えるだろうか。
今は、彼女の無事を祈るしかない。
2012-07-01
何処へ
先日、友人の女医、Sさんと2日続けてチャットできた。最初の日は、彼女の娘、Gちゃんが今夜パリに発つ、という日だった。夜中の2時の飛行機だけど、空港までが危ないわ、と心配していた。
次の日に聞くと、無事に旅立ったと言う。「これで彼女はとりあえず安全なところにいることになったわ」と安堵しているようだった。
でも、彼女を送っていった夜中は、近くの村を攻撃するロケット砲の光がよく見えたわ、と言っていた。音も結構だったから、なんとなく眠れなかったと。
そして、「私たち、移住することを考えているの」という。え?フランスに?と聞くと、娘と息子はフランスに、私たち夫婦はトルコに行こうと思っているのだと。「子どもたちはまだ将来があるし、そういう意味では、フランスにはとりあえずツテもあるし」
「私たち夫婦はフランスで、何が出来るわけでもないし」と続ける。でも、トルコに行くと、医者を続けることは出来ない、とも。
じゃあ、何をして生きていくわけ?と聞くと、「まずは、トルコ語でもマスターするわ。ま、そうは言っても、まだ決定したわけじゃないのよ」
彼らには、他の家庭よりは余裕がある、だからこそそんなことも考えるのかもしれないが、家族一緒にフランスで暮らすのは、やはり負担が大きすぎるのだろう。また、トルコであれば、近い。家のこともそれなりに気になるだろうし、帰ろうと思えば、すぐに帰れなくもない、そんな勘定もあるのかもしれない。しかし、問題は、彼女らまでが、国を離れることを考え始めているということだ。
ついこの前、夫の弟で、警察官をしているMが家族と一緒にトルコへ「逃げた」と聞いた。彼に関しては、「政府側」と見られ、身の危険を感じ出したという背景がある。
この話しをしてくれた夫の娘Oは、もう一生おじさんに会えないかもしれないと泣きそうだった。捕まった従兄弟達もまだ戻ってきていない。
教え子のことも気になる。エブラ語をやっているAにメッセージを残しておいたら、返事が来ていた。なんと、彼ら家族は再び、アリーハ(イドリブ)に戻ったらしい。やはりアレッポでは家賃の支払いなどが大変だったのだろう。しかもアレッポも近頃安全なわけではない。だけど、イドリブよりはましだろうに。
彼は書いていた。「パンを買いに行くにも命がけです。毎日死者のでない日はない。街のそこら中がめちゃくちゃになって、そこら中で銃や爆発音が聞こえます。だけど、他に選択の余地はないので、自宅に戻りました。神様に祈っていてください」と。
胸のつまるような思いがした。
このメッセージを読んだあと、旅行代理店のJさんからスカイプ・コールが来た。他の家は、ネットの具合が悪くて、チャット以外はほとんど出来ないが、彼のところは、商売柄、常にボイス・コールが出来るようだ。
彼に、女医Sさんの話をしたら、「ああ、その話なら知ってるよ。だって、彼女僕のところで娘さんのチケット買ったんだから。そのとき、そんな話もしてたね」と言ってくれた。
あなたはどうするの?と言うと、「僕は勿論残るよ。勿論仕事もあるけど、それ以上に僕はこの社会に存在するという責任がある。みんな事情があって外に出て行く、それは仕方がないけど、みんないなくなったら、シリアの社会がなくなるじゃないか。僕の場合は、ここにいるということが、今のご時世、僕のシリアに対する責任だと思ってるんだ。だけど、出て行く人を非難はしないよ。彼らなりの十分な理由がありすぎる。みんな好きで出て行くわけじゃない。」
「1965年以降、シリアの社会は、ゆがめられてきた。この年号の意味するところ、わかるだろ。あれ以来僕らは疑心暗鬼で生きるようになった。勿論、それ以前と変らない部分もあったわけだけど、社会の隅々がゆがみ始めた。「疑う」ことでね。我々の間に不信を植え付けた(政府の)責任は重大だ。僕は65年以前を知っているが故に、それをより強く感じる。」
「でも、僕たちはそれなりにやってきた。そして、今。出て行かざるを得ない人は、そうするより他ないんだ。これが、この40年間の一つの結論なのかもしれない。」
彼も、何か吐き出したかったのか、いつもより饒舌だった。スカイプでこんなこと言っていいのかしら、とも思ったけど、彼は関知していないようだった。
そして、「きのう、刑事警察のとこ、ほらここから100メートルのところで結構な爆破事件があって、クリスチャンのおばあさんが亡くなった。かわいそうに。だけど、アレは、その前後のことから考えて、やらせだね。はっきりしてるよ。」と。
アレッポの20世紀前半のことを知りたかったら、これこれという本を読めばいい、と数冊の本の題名を私に教えてくれ、いつになく長いスカイプ・コールを終えた。
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