2014-04-22

4度目の春




シリアの文化財への侵害は、慢性化しているようだ。アレッポのスークの炎上や、大モスクのミナレットの破壊は文化財の喪失以上の意味をもち、そこをわが町として暮らしてきたものの心をえぐった。しかし、その後も、多くの遺跡や史跡が攻撃に曝され続け、また埋蔵文化財の盗掘も後を断たない。



シリア考古総局やイギリスのDurham大学はある程度定期的にその状況を伝える報告書を出しているが、侵害を防止する術をもたない。これらの機関は現地のネットワークを通じて情報を得ていると思われるが、全てを網羅出来る訳ではない。



この状況を憂慮して、国内外のシリア人有志が昨年よりAPSAThe Association for the Protection of Syrian Archaeology シリア考古学保護協会)というグループを立ち上げた。シリア国内に残り、最も現場に近い場所で活動をしている有志たちと組んで、出来るだけ公正で、客観的な被害状況を記録しようと動いている。



状況の正確な記録をとるのは、現在のシリアの治安状況を鑑みると、それだけで極めて危険な作業であるが、彼らは使命感をもち誠実に活動を行なっている。このグループはフランス人考古学研究者の支援も受け、フランスで団体登録を行なっており、組織としても正式に活動を行なっている。



そのメンバーの一人Sと2月にトルコで会い、私もこのグループのメンバーとして名前を連ねることにした。Sはフランス在住だが、若干の活動資金がフランスからおりたということで、国内メンバーに若干の記録用機材を渡す予定だと言っていた。彼らの撮った写真の一部は、FBページに継続してアップされている。



とはいえ、人命さえがあまりにも軽んぜられている現在のシリアでは、文化財の侵害は見て見ぬ振りをされている感さえある。



そんなおり、結局シリア出国を果たせずに、現地に残っているハムドーから久々にメッセージが来た。相変わらずアレッポ郊外の極めて危険な地域を動き回っている。メッセージは、文化財侵害に対して、彼が出来ると感じる所を書いてきていた。



ハムドーはフットワークが結構軽く、どんなに状況の悪い時でも、そこら中を見て回る。その際、文化財の侵害の現場にしょっちゅう遭遇するらしい。彼は未だにアレッポ考古局に籍を置くが、職員としては開店休業状態である。しかし、考古学を学んだ者としてその度に、彼なりに侵害に対して、その非を咎める。



「問題は、『解放区』では僕には『正式な権限』がないので、結局は実効的なことは出来ないんだ」



このような混沌の中で、『正式な権限』もなにもないのではないのか、と聞くと「いや、若し『権限』があれば、ある程度の侵害に対して『力』が行使できる。少なくとも、ある程度の歯止めをかけることが出来るはずだ」という。



シリア北部、特に彼がよく把握しているアレッポやイドリブ地域は、現在ほとんどが反体制側の「解放区」になっている。反体制側は、一昨年頃から一種の自治政府的な形でこの地域を「おさえて」おり、学校やその他のサービスの一部を動かしている。



文化財関係でもいわゆる「文化財課」という部署があり、その中に教え子の一人がいたが、状況の悪化のため最終的に彼はトルコに逃れ出てしまった。他にも、もと工学部建築科の学生が担当者として数人いると聞いているが、人数的にも、また予算的にも出来ることは、極めて限られている。こんな中で、多くが村落部にある遺跡の監視などは人材的にも不可能ではないのか?



しかしハムドーは言う。「僕の周辺にも『有志』はいる。しかも、僕たちは常に動いているから、人づての情報じゃないものを持っている。ないのは『正式な権限』なんだ。確かにこんな状況だけど、遠巻きにするような文化財への対応しか出来ない、ということはない。僕らみたいな者をどうして使わないんだ?僕らは遺跡をとりまく生の状況を把握しながら行動できる。」



ハムドーに限らず、上記のAPSAのメンバーも同様である。彼ら自身を、そして彼らの「意志」を武器に、文化財を取り巻くこれ以上の無法状況を打開できないものか。



文化財に限らない。他の分野でも、現地にはなんとか秩序を取り戻そうと考える若者がいる。

シリアで「革命」が標榜されて3年が過ぎた。しかし皮肉にも今になって、未だに現地に残るこういった若者の意志により、真の「革命」が始まったように感じる。そして、それこそが古い体制が恐れていたものでもあるのだ。




2014-03-28

アーモンドの花



シリアの春は、花でいっぱいだ。



まだ少し肌寒い2月の末から3月にかけて、水仙の花束を街頭で売るのを見かけるようになる。可憐な水仙の売り子には、無精髭をはやしたような男性も多いが、それでも、みなニコニコ顔で、「いいにおいですよ」などと花束を差し出してくれる。春を一番に受け取る瞬間だ。



次にシリアに春が来たのを感じるのは、アーモンドの花が咲き始める頃だろうか?サクラにどこか似ているが、私たちがよく見かけたのは、もう少し白っぽく、もう少し涼しげな風情をもつ種類だった。アレッポ地方特有の赤い土と、葉の緑、花のうす桃色。まだ少しだけ冷たい風が、梢に流れる。アーモンドの木のそばには、いつもしんとした、新しい春の空気があった。



アーモンドに少し遅れて咲くのがムシュムシュ(杏)の花。ムシュムシュはもっと桃色が濃く、アーモンドよりも甘く賑やかな雰囲気を与えてくれる。花のつきかたも密で、かたまって咲いていたから、そんな印象を受けたのかもしれない。



普段はオリーブの木ばかりと思っていた場所にも、春になるとこれらの木が花をつけて存在感を示し、下草の中にも色とりどりの花があふれる。花の絨毯とはこのこと。オリーブの葉も、負けじと春の陽に輝く。



この季節、人々は、郊外へと繰り出す。バーベキュー用の道具や材料、タッブーレ(*1)用のパセリのみじん切りであふれる大きなタライ、お茶を湧かすためのバッブール(*2)をもって。ナイロン袋にいれた、ガラス製のティーカップをがしゃがしゃいわせながら。



今頃は普通の乗用車に乗る人も増えたが、それでもまだトラジーネ(バイクに荷台を組み合わせた乗り物)は健在で、これに家族をのせて、みんなでわいわい言いながら野に向かう。



ある年、日本から来た友人たちと少し遠出をして、地中海沿岸、ラタキア方面に「お花見」に出かけたことがある。アレッポからラタキアに行くには山を越えなければならない。しかし道中にはお花畑あり、アーモンド並木あり、ムシュムシュ並木あり。春の匂いを満喫しながら海に出る。

春の地中海は、ぬけるように碧い。春の陽は水面で、きらきらと踊っている。内陸部とはまた赴きの違った春。でも春爛漫。私たちが「トルコ富士」と名づけていた山が、北の方に霞んで見えていた。



以前、春は、当たり前のように来た。



しかし、今日、そのラタキアに住む友人から届いたニュースは、今シリアに春はないことをあらためて知らせてくれた。



数日前、海岸部にあるトルコとの国境カサブの町を自由シリア軍が制圧したという報道があり、その後、自由シリア軍はさらに周囲の村落部を奪取している。しかし、その反動か、一方の政権側の民兵たちは、今日現在、ラタキア市街にある商店街の襲撃を始めている。



海岸地方は、シリアでは状況が唯一、他よりは「まし」であったため、他地域からの避難民が流れて来ている。しかしここに来て、市民たちは、これから何が起こることを予測もできず、ただただ、運命を待ち受ける。



「もう、慣れたと思っていた。・・だけど、今度はついにラタキアだ。しかも市街地・・」友人は、それ以上のことを語らずにネットから消えた。カサブに避難していたアレッポの友人は、再び危険なアレッポに戻らざるを得なくなったとも聞いている。



銃声はあの花畑にも鳴り響いているのだろう。アーモンドの木は、今なにを思って佇んでいるだろうか。



1 挽き割り小麦を入れたパセリのサラダ
*2 ポータブルのガスコンロ

2014-03-04

気弱な勇士



娘の友人の友人でホムスに残るアフマドは、今時の日本語で言えば、草食系にあたるのだろうか。彼には直接会ったことはないのだが、メッセージからは気弱なイメージが伝わって来る。一度写真を送ってくれたが、確かに優しげな風情を持つ「男の子」である。



ずっと優等生だったようで、大学では、工学部の通信工学科にいたという。シリアなどの中東では、エンジニアや医者はエリートコースということになっており、かれも順調に行けば、通信技師になってそれなりのエリートコースを歩むはずだった。



しかし、他の多くの学生と同じように、このシリア危機の中で、デモに参加し、大学に居続けることが出来なくなった。結局勉強は中断したままだ。「シリアにこのまま留まっていたら、エンジニアになるという僕の夢は、達成出来ない。何か日本でも、他の国でもいいから、奨学金はないのだろうか?」と何度か聞かれたことがある。



こんな風で、自分の将来にはなにも明るい希望が見出せないが、彼はずっとホムスでも最も状況の悪い地域を対象にして支援活動を行なっている。友人たちと学校に行けないでいる子供たちのための教育プログラムも始めたらしい。



ある時、支援活動中のこんな経緯を話してくれた。



ホムスには何ヶ月にもわたり政府軍に包囲されている地区があるが、そこに彼らは許可を得て、少しばかりの支援物資を搬入することもある。しかし検問を通過するのはその度に至難の業で、時々兵士たちに震え上がるほど脅される。



その日も、支援物資を運び込もうと検問まで行き、交渉が終って中に入ろうとすると、彼は呼び戻された。そして何も言わずに、いきなりビンタを食わされた。そして「髪が長い」「今度切ってこなければ、処刑だ」と脅された。



彼は、その後、急いで髪を切った。しかし、兵士たちの脅しを思い出しては、今度行く時に何をされるかわからない、と怯えていた。「支援に行くのを躊躇してしまう、本当に怖いんだ・・。」と「弱音」を吐いた。



この事件のあと、彼はかなり悩んだようで、「外国になんとかして出ることを考えている。ほぼ決心した」とその後のメッセージには書かれていた。



2日ほど前に、彼と久しぶりに話した。昨今の「国際会議」の成果でホムスに国連からの人道支援は入ったかと聞くと、国連の支援は政府軍制圧地域にのみ、彼の居る「解放区」には支援など来る訳もない、とのことだった。



彼は、全てがジョークだと言って、この閉塞状況を激しく嘆いたが、最期に「でも」と切り出した。



「この前、シリアから出たいって言っていたでしょ?しかも、ほぼ決めたはずだった。」



「だけど、今、子供の教育プログラムやっていて、子供達を見てたら、この子達を残して、国外なんかに出られないって、そう思った。僕たちが出て行ったらこの子たちはどうなるんだろうって。」



「人間って、やっぱり最期まで夢を見る。だからいつかは絶対、と思うけど、今は・・やっぱり出られない。」



彼の思いは痛いほどわかった。この状況での、大きな選択。私は思わず、君ってなんて勇敢なんだろう、と言った。



彼は、私の言葉を打ち消して「え、全然そうじゃないよ、爆撃の音が今でも怖くてしょうがない」と気弱なことを言った。














2014-02-11

あの日から2年




今回のトルコ滞在最後の日、2月8日は夫の命日だった。もうあの日から2年も経った。夫の墓のある村は、昨年の今頃よりもさらに危険な場所となり、今年も墓を訪れる事も出来ないが、偶然にもこの日にシリアとトルコ国境の町、キリスに行く事になった。



私にとって特別な意味を持つ日に、シリアを国境越しに、垣間見る事が出来る。これも、何かの思し召しのような気がした。



キリスには大規模なシリア人難民キャンプがあり、そこには私の旧友家族も住んでいる。



キリス向かう道は、穏やかな日の光に包まれていた。両側に広がる農地は、冬の雨で蘇った緑に包まれ、所々耕されている部分は、シリアで見慣れた赤っぽい土が顔を除かせている。所々にテル(遺丘)も見えて、シリアにいるような錯覚に襲われる。



しかし、ガジアンテップの町を出て30分くらい行ったところで、コンテナーを連ねた小規模なシリア人難民キャンプの一つが現れ、現実に引き戻された。周りののどかな光景の中で、やはりそれは異様なものだった。



しばらく行くと、キリスの町が見え始めた。キリス病院のところで左に折れ、さらに行くとシリアとの国境まで、延々とトラックが連なりながら停まっている。このトラックにはシリア人難民への物資及び国内向けへの物資が入っている、と運転手氏は言う。このトラックの連なりの向こうに「キリス1」というシリア人難民キャンプがある。



程なくキャンプに着いた。友人家族には連絡が行っていたので、キャンプ外で待っていてくれた。懐かしい笑顔、懐かしい「アハラン・ワ・サハラン(ようこそ)」。暖かな抱擁。



我々は許可がないのでキャンプ内には入れないため、入り口すぐ脇にある、お茶の飲める場所で話をした。



彼らがアレッポを逃れてこのキャンプに来たのは1年前。アレッポであてどなくさまよった後だった。「キャンプに来てから2回くらいアレッポの家に戻って、ちょっとした家財道具を持って来たけど、うちのバルコニーは潰れていたわ。まだ全壊はしてなかったけどね」友人の母親は、淡々と語る。



生活のあれや、これやを話しては、「まだ他の人よりはマシな生活ができている。神様に感謝しているわ。」と彼女は言っていたが、「難民証」に話が及んだ時、今まで冗談を交えながら話をしていた彼女の顔が曇った。

「でもね・・、ここに書いてある一言。これを見る度に、胸が押し潰されそうになるの。」と彼女が指差した「難民証」の一部分には、「祖国を失った者」との記述があった。



祖国を失った?シリアは、このキャンプのすぐ横にある国境のゲートの向こうに広がっている。だけど、そこはすでに祖国ではないのか?



この数日、またアレッポでの樽爆弾の投下が激しくなっており、避難の波が再び大きく押し寄せている。ゲート周辺には家財道具を載せられるだけ載せた車や、持てるだけの荷物を持った人々が、右往左往している。



祖国を失う。なんと重く、鈍い痛みをもたらす言葉なのだ。



キリスに行く事になった時、夫の墓に佇むことはできないにしても、国境からシリアを眺め、暫し想い出に耽りたいと思っていた。しかし、目の前にはもっともっと厳しく、悲しい現実がある。



冬の陽が頼りなさそうに傾き始めた。別れを告げなければいけない。友人の母は、こらえ切れずに泣き始めた。今度会う時はアレッポでね、と言う彼女の後ろのキャンプのゲートが、やけに無機的に見えた。






  このキャンプ(キリス1)には現在、約13000人程が「収容」されている。コンテナー型の2部屋をしつらえたキャンプで、「収容」されている人には、一月一人100トルコリラ(約5000円)分のチケット(85リラが物資との交換用、15リラが現金支給用)が支給されるということである。


2014-01-27

ジュネーブの会議


今日、ハムドーは、スイスで行なわれている会議よりも、格段に大事なことを話してくれた。



現在彼はカファル・ハムラというアレッポ西北部の村にいる。昨年のある段階までは、アレッポ市街にでることもかなりあったようだが、最近はどのくらいの頻度で行っているのか、あるいは行く事ができるのか。



ハムドーによれば、この数ヶ月来、この村の南部には政府軍が陣取り、また西側は、自由シリア軍とISISとの間の戦闘が激化しているため、非常な大回りをしなければアレッポ市内には入れないと言う。以前はカファル・ハムラからは車で街道をまっすぐ15分も走ればアレッポ市内に入れたのに、今はアレッポの北東部の外周道路を、車で約3時間かけて、町はずれにたどり着く。しかも、これは樽型爆弾や砲撃なんかがおさまっているときを見はからねばならない。



漸くアレッポ市内に入っても、以前このブログでも紹介したブスターン・カスルという地区の「死の通過点」を渡らない事には先に行けない。「今でもこの場所にはスナイパーがいて、日に2−3人の市民が撃たれて亡くなっているよ」



ブスターン・カスルからさらに町の中心部、例えばジャミリーエまで行こうとすれば―以前はこの距離を歩くことなど考えなかったが、近頃は徒歩で行くらしい―軍の検問が何カ所もある。そして、もし少しでも不審であると判断されると、有無を言わさず拘束される。



運良くジャミリーエに着いても、誰も命の保証など出来ない。政府軍の制圧下にあるこの地区は、アレッポ旧市街からの射程距離内だ。旧市街には自由シリア軍が陣取っているが、彼らは近頃大砲を備え、不定期に弾を撃ち込んで来る。



「前にも言っただろ、ロシアン・ルーレットだって。あれは冗談じゃない。」



「だけど、心配する事はない。僕が動くときは、考えに考え抜いてからだ。だから、無茶はしない。確かに状況は最悪以上だ。それはいつも言っている通りだけど、この3年間で、本当に経験を積んだし、色々学んだ。今まで、自分がこれだけ学んだり、考えたりすることが出来るなんて思わなかった。」



「わかる?ヤヨイ?シリアのこの『試み』は僕をすごく変えたし、すごく学ばせてくれた。どういう風に身を処するか、だけじゃない。政治を理論と実践で学んだし、軍事を理論と実践で学んだし、人道ってヤツも理論と実践で学んだ。」



「なんかすごく年をとった気がする。150歳くらいになったみたいに。そして周りにいる皆が、すごく単純に見えてしまう事すらある。だけど、同時に、ああ、なんていい人たちなんだろうって、今になって思えるんだ。」



「そして・・・毎日、毎日、シリアがもっと好きになっている。」



「時々、僕の村、ビレーラームーン村の自宅にこっそりと帰ってみる事がある。家に入って、ちょっと座って、家の匂いを嗅ぐんだ。」



夫の眠る墓地のすぐそばにハムドーの家はある。私も、ふと、アレッポ最後の日に行った墓地の、赤い粘った土と雨の匂いを思い出した。



「もうすぐ、この戦争は終る。僕はそう確信する。・・・だけど、その後混乱は結構続くだろう。・・いや、でもそれは困難じゃない。人はちゃんとした分別を持ち始めている。これが、たぶん解決を早める事になるはずだ。みんな、状況を良くしたいという意識をもっているから、良くなる為のどんな事にも参加していくさ。みんな、目醒めて来ているんだ。」



意外だった。最悪の事態の只中にいる彼から、こんなに静かな、しかしながら澄み切った将来への確信の言葉を聞こうとは。



人々は苦しんでいる。悲しんでいる。疲れている。しかし、そんな中でさえ、人々は学び、将来への確信をもつ。そして、「祖国シリア」を日々さらに好きになっている。



ジュネーブの会議よりも、なによりも、シリアを変えるのは、シリア人。それを、ハムドーは改めて言葉にしてくれた。




















2014-01-14

ハムドーからのアレッポ近況報告





アレッポの郊外の村に避難している甥っ子のハムドーは、今でもネットさえ使えれば、何がしかの状況を伝えて来てくれる。家のネットはほとんど使えないが、「ネットカフェ」に行けば、停電さえなければなんとか通信が可能だ。勿論、ネットカフェに行くのが、また命がけなのだが。



昨年暮れに、そのネットカフェからチャットを仕掛けて来た。



「今、僕の横にISISのメンバーのヨーロッパ人がいる。ドイツ人らしい。ヤヨイとチャットしているのを見られたらヤバいかも知れない。しかもヤヨイのFBの写真はスカーフがない。ヤバい。」

「イラクとシャームのイスラーム国」)



「今、村にいるISISはほとんどが外国人だ。え?シリア人以外のアラブ人?それは少ない。ヨーロッパ系がすごく多い。ああ、チェチェン人が一番かもしれないけど、それに限らない。ドイツ人とか、フランス人とか、そうそう、ロシア人もいる。この村にこんなに多くのヨーロッパ人が来た事ってなかったよな。妙な話だ。」



「知ってると思うけど、彼らはいわゆる解放区に来ては、それを制圧しようとする。近くにいる自由軍のある旅団の指導者も最近彼らに殺されたみたいだ。でも戦闘以外だと、結構、人助けなんかもするんだ。それはまだいい。だけど問題は・・・」



「彼らは、愚かで、とにかく狂信的なんだ。イスラームの決まりだと言って、いろんな人を拘束する。でも、その理由はほとんど言いがかりでしかない。例えば、さっきスカーフを被っていないヤヨイとチャットしたらヤバいって言っただろ。あれは冗談じゃないんだ。スカーフを被ってもいないような、そんな女性とチャットするのは彼らは罪とみなすんだ。そういうバカみたいな難癖をつける。だから村の人たちは彼らのことを、怒るというよりも、影ではバカにしてる。だけど、武器を持っているから逆らえない。何をされるかわからない。そういう意味ではすごく危険だ」



「言葉?片言のアラビア語を少し覚えていて、村の人ともたまに話してるよ。村の人も少しこんな妙な闖入者たちに慣れたといえば慣れた所もある。」



妙なことになっている。村人たちも、これらのまさしく外国人が、何をしたいのかよくわからない。ただ、彼らはこの村に陣取って、歯向かうものには銃をむける。彼らがいる所には空爆はこない、とハムドーは言う。そして、淡々と彼らの存在の奇妙さを語った。



一週間ほど前には、「村の状況は最悪。とにかく村では死体がそこら中に転がっている。異常な世界だ。危険な所にすんでいる親戚もまだいるから、僕のいるところに連れてこようと思うけど、道中が危なくてそれも出来ない。とにかく、祈っていて、それだけ」というメッセージが残っていた。



新年になっても樽型爆弾の投下は、断続的にアレッポとその周辺に続いている。



「祈っていて」というハムドーの言葉が、全てを物語っているかのようだ。












2013-12-24

ロシアン・ルーレット


また一人、友人が亡くなった。



数日前、電車のなかで、FBのメッセージ着信音が鳴った。何気なく携帯をみたら、結婚してフランスに住む友人のA からだった。



「弟のハンムーデが亡くなった。昨日は一睡も出来なかった。」



びっくりして、乗車して来る人たちの波に押されながら、入って来るメッセージの文字を追った。



「この一週間ばかり、毎日アレッポで樽型爆弾の空爆が続いている。心配はしていたけど、弟はあまり空爆の対象にならない地区に住んでいるから、大丈夫と思っていた。でも結局、彼は自宅じゃなくて、サーフール地区の勤め先の小学校でやられた。他に先生と子供たちも十人以上亡くなったようだ。」



アレッポのいわゆる「解放区」では、少しずつ学校が機能し始めた、と聞いている。Aの弟は、そんな学校の一つで最近、フランス語を教えていたらしい。私は、彼の弟には20年近く前に数回あった事があるきりだが、若干病弱であったこともあり、気弱な感じのする、もの静かな青年だったことを覚えている。



それでも数年前に結婚して、男の子が出来たと聞いていた。内戦が始まってからは、自宅が政府軍に押収されたあと、安全な場所を求めてアレッポ市内を転々としていたようだ。



「これが今のシリアなんだ、あそこじゃ、みんな、こんな目に遭ってるんだ。それはわかっている。でも、泣くのを止める事はできない。」



年末の夕方、電車はそれなりに込んでいた。混雑する電車の中で、携帯を見ながら、小さなディスプレイの文字がにじんで来るのを感じた。車窓の外は、東京のイルミネーション。でも、私の手の中には、一人の人間の不条理な死を告げるメッセージ。



その夜は、さらに甥っ子ハムドーのFBメッセージの着信音で目が醒めた。



「今日はまともに樽型爆弾が降って来た。すんでのところで、バラバラになるところだった。」「この前は雪が降ったけど、この所、アレッポは、樽型爆弾の雨が降っている。毎日がロシアン・ルーレットみたいに過ぎて行く。僕のこんな話に嫌気がさしただろ?でも、これがシリアなんだ。残念ながら。」



メディアは騒がなくなった。しかし、シリアでの殺戮は着実に進行している。

2013-12-12

雪玉



数日前の朝、ベイルートに避難しているはずの友人、アブ・アミーンがFBに「ヤヨイ、元気?今アレッポにいる。猛烈に寒い。吹雪が来るらしい。」とメッセージを送って来た。彼は家族とベイルートに逃れてから一年近く経つが、所用のため、一ヶ月ごとにアレッポに帰って来ているらしい。



「誰もいない家は、余計に寒さを感じる。だけど、僕にはまだ家がある。でも、家を追われた人たちはどうなのだろう。アレッポへの帰路で見た村々は、多くがゴーストタウンのようになっていた。ほら、ハミード先生たちと行った、ジャッブール湖畔の村だよ。覚えているだろ?あの村の人たちは、どこの寒空の下にいるんだろう。」



彼の独り言のようなメッセージは、途中で途絶えた。おそらく、停電か、ネットが切れたか。



彼が伝えてくれたとおり、昨日、今日と、シリアでは大雪となった。



シリアでは、時に雪が降る。そして雪が積もると、老いも若きも、誰彼なく町中で雪玉の投げっこを始める。ぼんやり歩いていると、どこからともなく飛んで来た雪玉にやられる。でも、誰も怒るものなどいない。嬉々としてやり返したり、逃げ回ったり。雪の日は、町中が無礼講なのだ。



雪への備えをしていない車は、スリップし、他の車とのニアミスも。ぶつけられると、それなりにもめたりはするが、でもなんとなく、雪に免じてそれほどの大きな騒ぎにはならない。



雪の日には、ほかほかと湯気のたつ暖かいサハラブ(コーンスターチでとろみをつけた甘いホットミルク)を売る道ばたの屋台は大流行りだ。ふりかけられたシナモンの香りが、熱いこの飲み物とよく合う。



陽がさしてくると雪は急速に溶けるので、人々はそれを惜しむように、雪を楽しむ。雪でべたべたになった服は、ストーブの煙突につけた物干に干し、その周りで熱い紅茶とカアケ(乾パン)を食べる。



そんなこんなが、シリアの雪の日の情景だった。



しかし、今のシリアには雪は脅威でしかない。雪が降り始めたと思われる頃に、早速フェースブックに吹雪の中に吸い込まれそうなみすぼらしいキャンプの写真がアップされた。



また、今朝は雪を被ったアレッポ城とアレッポの町の写真がアップされていた。こんな状況でも、アレッポ城は鉛色の空を背景に凛とたっている。



「破壊と、痛みと、死と、そして寒さ、にも関わらず、雪に白く覆われたアレッポはなんて綺麗なのだろう」と写真につけられたコメントは言う。



飛び交う銃弾が、再び無礼講の雪玉に変わる日を念じつつ。


















2013-12-05

刺繍糸が埋めるもの



トルコに逃れているシリア人避難民の女性たちから最初の刺繍が送られて来たのが7月9日。最初の便で送られて来た作品は、出来にばらつきがあり、非常に丹念に刺されているものもあれば、糸がうまく図案にのっていなかったり、刺し忘れの部分があったりした。



刺繍の先生をしている友人にアドバイスをもらい、細かい点を指摘したコメントを女性たちに伝えた。コーディネーターの女性は、私たちのコメントを素直に聞き、女性たちに伝えてくれた。



第一便から1ヶ月半あまり経って来た次の便は、私たちのコメントを反映して、細かい点が随分改まっていた。皆、がんばっていいものを作りたいとおもっているから、コメントがあったらどんなことでも言ってほしい。そうコーディネーターの女性は伝えてくれた。



直接指導ができないもどかしさがあるが、それでもコメントは一つずつ反映されて行った。



第四便を作成中、彼女ら独自で考案した、しかしシリアの伝統の形のモチーフを入れてもいいか、との問い合わせが試作品の写真とともに来た。可愛らしい壷をかたどったモチーフだった。一目で気に入った。そしてこの前届いた第五便には、人気のモチーフだった「モスク」をさらに彼女らがアレンジしたバージョンが入っていた。



色鮮やか、だけど、やっぱりどこかゆるキャラね、シリア人だわ、と届いた刺繍を額にはめ込みながら思った。



少しずつ進化している。それはトルコで避難生活を続けている彼女たちの感性の賜物。そして、その感性は日本にいる私たちをも動かしてくれている気がする。



しかし、支援の規模としてはまだまだ。今からまた冬が来て、暖をとるにもお金がいる。そんなことが心配で、と先日、現地のコーディネーターのMさんにもらしたら、彼女はこう言った。



「確かにそうだけど、彼女たちにとって、時間を埋めてくれるすべがあることが今は一番いいことなのよ。みて、こうやって一針ずつ空間を埋めて行く。それは時間を埋めて行く事でもある。何もしないで国のことや亡くなった人たちのことを考えるのは、ものすごくつらいことよ。しかも空虚な時間があると、悪い方にばかりものを考えてしまう。」



「彼女たちの名前を刺繍に書いたでしょ?あれがフェースブックにアップされたとき、彼女らがどんなに喜んだか、貴方は知らないでしょ。彼女らは、あれで、本当に遠くにいる日本人に、自分たちのことが知らされたんだ、って大はしゃぎだったんだから。」



「今度はグループで一番若いラギダの刺繍をアップしてやって。だって、彼女は自分の作品の番はいつくるの、ってものすごく楽しみにしてるのよ」



お金だけではないのだ。食べるものも、着るものも、中には寝る場所にも事欠くような、こんな異常な事態にあって、彼女らは喜びを見つけてくれている。



刺繍の艶やかな糸が、彼女らの微笑みをさらに増してくれますように。












2013-11-05

アレッポ近郊の村での事件



甥っ子のハムドーが国外へ出たいと画策を始めたのは、もう3ヶ月前だ。ヨーロッパに居る親戚に、如何に国外へ出て、ヨーロッパに向けて動くか、それにはどのくらいお金が要るか、と言った事を尋ね、さらに周辺のアラブ諸国に居る知人や親戚に借金を申し込み、彼なりの結論を出したかのようだった。



しかし、彼は未だにアレッポ近郊の村に居る。9月中頃、彼が漸くトルコに出る算段をしていた頃、トルコ国境の町アザーズで自由シリア軍と「イラクとシャームのイスラーム国」の激しい衝突が始まった。



ハムドーからの通信は途絶えがちになったが、それでもぽつん、ぽつんと送られて来るメッセージには「状況は非常に悪い」、「母親や妹たちの世話におわれている」といったことが書かれており、彼がまだシリアを「出られない」でいることがわかった。



しかし、何が実際起こっているのか、不明だった。



2日前、その一端がわかった。この間に、ハムドーは2回も「イラクとシャームのイスラーム国」に捕まっていたのだ。「なんとか、逃げられた。でもまた捕まる可能性がある」という。



彼の拘束の理由は、義弟と自由シリア軍の一派との関係にあるようだ。義弟はこの騒乱の数年前にアレッポ郊外の田舎に自動車学校を作った。定年後を見越しての計画だった。



のんびりとした田舎で、アレッポから30分くらいで行けるため、主人とよく気分転換と称して遊びに行ったものだ。敷地の中には、バーベキューをするのに恰好の場所もあり、友人たちとバーベキューを楽しんだこともあった。



今年の初め頃、アレッポからハレイターンという村に移り住んでいた義弟たちは、度重なる空爆でさらなる移住を決め、息子夫婦、妹夫婦などと一緒に、自動車学校に移り住む事に決めた。この村は、まだ比較的平穏だったのだ。



義弟はダマスカス高等裁判所の顧問を務めていたいわゆる名士だが、昨年離反を表明した。その後、彼の所に自由シリア軍の旅団のいくつかがコンタクトをとるようになったらしい。そのうちの一つの旅団のメンバーは自動車学校に住むようになったという。



そこに、最近とみに「勢力」を伸ばしている「イラクとシャームのイスラーム国」が目をつけた。小競り合いが始まった。そして次第に衝突は激化し、後者は数日前、数人を戦闘で失ったらしい。そこで、「復讐合戦」を始めた。



ハムドーは親戚だということで付け狙われるようになった。義弟の二組の息子夫婦と子供は、住居である学校から抜け出られずにいる。義弟はこの衝突の始まる前にトルコに短期間ということで出かけている。



これは、アレッポ近郊で起きている様々な事件の一つにしか過ぎない。そして、それはニュースでは一行にも満たない出来事なのかもしれない。



しかし、血のつながりはないとはいえ、「弟」と呼び、「甥」と呼ぶ人たちが「登場」するこの一連の事件は、私にとって外信ニュースでもなければ、テレビドラマでもない。



僅か数年前、私はあの村の静かな秋の夕暮れを楽しんでいた。しかし、今はその夕暮れから遠くにあり、ぽつねんと不条理が忍び寄るのを感じるのみである。