2013-02-22

ユーフラテス川のほとり




حطو قبري بعارودة

وبراس رجم عالي

بلكي الحلوة تمر من هين

والفاتحة تقرالي
私の墓はアルーダに作っておくれ                      
あの高まりの墓のなかでも、一番目立つ所にね                    
ひょっとしたら、可愛い娘がやってきて                
ファーティハを唱えてくれるかもしれないから                  

これは、アレッポの北東部、ユーフラテス川のほとりに聳えるアルーダ山(ジャバル・アルーダ)一帯に伝わる、古謡である。この謡に詠われているアルーダ山の頂上には、シャイフ・アルーダ(長老アルーダ)を祀る祠があり、そのまわりには墓地が広がっている。そして今でも周辺の集落の人々は、この高まりに死者を葬る。

この古謡は、誰が詠んだのか。アルーダ山での一族の葬送を終え、一人頂に残った若者が、いつかは訪れるその日を、無邪気を装いながらも甘美な感傷を交えて謡ったのだろうか。
それとも、つれない「可愛い娘」への、遠回しの愛の告白なのだろうか。
彼の眼下には、ユーフラテス川が空の色を映して青い水をたたえる。かなた対岸には石灰岩の白い崖が、凛としたコントラストを見せて佇む。
春ならば、ヒバリが空高く舞い上がり、そんな中で彼はこの謡を口ずさむのだ。
この謡を聞いた時、そんな情景を思い浮かべた。

このアルーダ山の中腹では、1970年代に紀元前4千年紀末の神殿が発見され、非常なセンセーションを巻き起こした。少し下流のハッブーバ・カビーラなどの遺跡の発見とも相まって、メソポタミアの初期都市文明との密接な関連が証明され、ユーフラテス川を仲介とした、現在のトルコにまで広がる壮大な古代の交易ネットワークの存在が世に知らしめられたのである。

しかしその後、アルーダ山の上流と下流に二つの大きな多目的ダム(タブカ・ダムとティシュリーン・ダム)が建設され、ユーフラテス川はせき止められ、ダム湖が多くの遺跡を呑み込んだ。ひとりアルーダ山は高所であることから水没を免れ、静かな湖面に昔ながらの威容を映していた。

シリアの内戦は、しかし、このような静寂とした遠隔の地にも及んでいる。

数週間前に、自由軍がこれら二つのダムを制圧したというニュースが流れた。アルーダの近く、ハフサの町でも半年以上まえから衝突が断続的起こっていると聞いている。甥っ子のハムドゥーは、一昨日、メンベジ市の遺跡の番人が、爆撃の激しさに伴う遺跡の危機を訴えにアレッポに来た、と言っていた。ダムは多くの遺跡を呑み込んだが、一連の争乱は、この地域を丸ごと呑み込もうとしているようだ。

そんな折、FBで、妻を残して戦闘に参加している若者の写真メッセージを見つけた。目だけを出して、クーフィーヤを巻いた若者は、「あなたはこの目を見れば僕が誰だかわかるはず。他の誰にもわからなくても。」と妻に語りかける。

彼のこの語りかけに、ふと、あのアルーダの古謡を思い出した。

2013-02-09

夫への手紙

ハミードさん、あなたが私の前から居なくなって、今日(2月8日)で1年経ちます。この1年で、アレッポの、そしてシリアの状況は、加速的に劣化しました。あなたが、シリアの暖かい思い出を全て持って行ってしまったように感じることもたまにありますが、シリアの友人からの便りを読むたびに、そんな感情とは別に、時の歯車は回り続けていることを認めないわけにはいきません。

あなたの眠るビレーラームーン村には、今誰も住んでいません。村中が激しく破壊されて、くずおれた建物の一角に自由軍がひそみ、レジスタンスを続けています。すぐ脇のザハラ地区に政府軍が陣取っていて、そこから砲撃が村に繰り返されているという事です。

ハムドゥーは今、カファル・ハムラ村に避難し、弟のフセイン一家と一緒に住んでいます。たまに危険を冒してビレーラームーン村に行く事もあるようですが、あるとき、お義父さんの家が完全に潰されたのを見た、と言っていました。村はずれの義妹のアミーナの家は、ザハラ地区に一番近い事から、かなり早いうちから村の中でも最も危険な場所だったので、勿論家族共々別の村に逃げて、今は他の義妹たちの家族と一緒に住んでいます。

マフムードも逝ってしまいましたが、あのあと、残ったあなたの兄弟、従兄弟たちは逆に連帯感を強めて、自衛活動や救援活動を継続しています。フセインは元判事の経験をもとに、現在起こっていることを、法的に追っていこうとしているようです。

私は、日本にいて、彼らの動きを垣間見るしか出来ないのですが、それぞれが自分の置かれた時空の中で、立ち止まらずに何かを探しています。歴史を学んできた私たちですが、現在シリアで起こっていることは、図らずも私たち自身が「歴史」の中に組み込まれているのだということを、肌で感じさせてくれています。それは、途方もない痛みを伴なうものではあるのですが。

こんな訳で、今はお墓にお花を捧げる事も出来ません。ハムドゥーがあなたのお墓に植えてくれたオリーブの木は、少しは大きくなったのでしょうか。早く枝葉を伸ばして、あなたの上にやさしい陰を作ってくれればいいのですが。そして、その頃には、シリアにも新しい芽が芽吹いていればいいのですが。

2013-01-29

希望

アレッポ博物館の庭には、ヒッタイト時代の「2人の有翼の精霊」のレリーフ石が「展示」されている。博物館の前庭の片隅に置かれているため、たいていの入場者は気がつかないのだが、これは20世紀前半にアレッポ城内から偶然発見されたものである。

また、収蔵庫には、同じ頃、やはり偶然にアレッポ城から見つかった、紀元前18世紀頃のものではないかと推定される楔形文字の刻まれた建物の礎石の破片が保管されている。

私がアレッポ博物館に客員研究員として入って間もない頃、当時アレッポ博物館の学芸員であった夫はこれらの資料を誇らしげに見せてくれたものだ。

そして、1990年、アレッポでの最初の正月に、夫は私を、オールドスークから少し入った、アレッポの旧市街のアカベと呼ばれる高まりにあるキーカーン・モスクに連れて行ってくれた。このモスクの壁にはヒッタイトの絵文字の刻まれた石が使われている。この石はモスク建設に伴って、周囲が掘り返された際に出土し、その意味を知られることなく、壁に埋め込まれたようである。

夫は、この古代文字の彫り込まれた石を前に、このアカベの高まりの下には、ヒッタイト時代、あるいはそれ以前の遺構が眠っていることを熱っぽく語ってくれた。アレッポ博物館にある、上記の遺物ともあわせて、アレッポの古代は、今のオールド・アレッポの城壁内や、アレッポ城そのものの下にあるのだ、と。そして、それは、我々シリア人の手で掘りたいと。

その後、1994年に夫はアレッポ城内の短い発掘を行なったが、様々な策謀の結果、翌年には発掘はドイツ隊に委ねられる事になった。夫は激しく失望した。アレッポ城こそは我々シリア人が掘るべき場所なのにと。

いずれにせよ、その後、アレッポ城からは、紀元前二千年紀の 神殿のあとが見つかり、さらに紀元前3千年期の遺構の一部も確認された。ドイツ隊の手によってではあるが、ここにアレッポの古代が見え始めたのである。

 その後、2002年に夫は大学に移り、学生たちにその思いを伝えるべく、教鞭をとり始めた。そして、 次の年の初夏だっただろうか。夫は、件のアカベのキーカーン・モスクに学生を連れて行き、私に説明してくれた以上に熱く、この高まりに埋もれているであろう古代のアレッポを学生たちに語った。

学生を教育して、基礎を十分に作って、調査をすればいい。今からだ。その思いを彼も、私も、学生も、皆がシェアしていた。施設も制度も不十分だったが、そこには希望があった。


 
そして、今年1月15日。アレッポ大学が空爆され、80人以上が死亡する事件が起きた。将来を託される学生の多くが犠牲になった。試験の初日だった。こんな内戦状態の中でも、まだ試験を受けに来る学生がいたのだ。まだ、そこには、なにがしかでも、希望を捨てない若者がいたのである。

その希望をこの空爆は無惨に 打ち砕いた。

数日後、最近アレッポ大の考古学で教えることになった友人のメッセージが入っていた。「私はハミード先生やあなたが基礎を作ってくれた考古学科で今、教えています。ありがとう。私はシリアを愛しています。だから、何があってもこの国を守って行きたい。最後の瞬間まで。」

この思いがもう一度、希望を蘇らせてくれる事を祈りつつ。 そしてこの思いに加わることを願いつつ。

















2013-01-13

戦うということ


今回のヨルダン滞在では、シリアから退避してきている数人の若者たちに出会った。その中の一人、KHは、現在ヨルダンの工学系の大学に在籍し、エンジニアを目指して勉強している。

彼はもともとシリアの大学の工学部に在籍していた。しかし、そこでも反政府デモが起こり、治安部隊との衝突が日常化する中で、勉強を続けることが不可能となり、隣国の工学系大学に入り直したのだ。

現在は、国外からシリア国内にいる難民の人道支援をボランティアとしてやっており、援助物資などの調達、国内の支援グループとの連絡などを行う。

「僕たちはやり方を間違ったのかもしれない」彼はそう切り出した。

もの静かな若者で、23歳とは思えないほど、落ち着いたしゃべり方。エンジニアというのは中東ではエリートであり、彼もそれに到達するために一種のプライドを持って勉強をしている。隣国とはいえ外国で勉強を続けることが出来るクラスの家庭の子弟でもある。

彼もシリアにいる時は、反政府デモに参加していた、という。何かが変わらなければいけない、という共通の意識のもとに他の学生とともに自然にデモを続けていた。

「デモに参加し始めた時は、学生は皆、改革を求めて、平和的にデモをやっていた。治安部隊には、最初は威嚇されたけど、とりあえず僕たちはデモを続けた。」

「だけど、デモ隊に銃が打ち込まれて、友達が死に始めた。そのとき、僕たちの一部は武器を手にとった。それは、始めは防衛のための武器だった。」

「そこまでは、良かったのかもしれない。だけど、ある時からその防衛のための武器が攻撃のための武器に変わった。そこが、大きな転換点だったようだ。」

彼は続ける。「僕たちは、間違ったのかも知れない。僕たちは、知らなかったんだ。革命のやり方を。誰にも教わらなかったし、誰も教えてくれなかった。」

「活動をしながら、政治の本もたくさん読んだ。何かがわかると思って。だけど、そんな事をしている間に、何人も、何人も死んで行った。」

「改革は出来ると信じるよ。そして、改革されないといけないと思う。だけど、今やっているようなやり方は、間違っている。5年かけても、10年かけてもいいから、少しずつやっていけば、何万人もの犠牲を出さすにすんだはずなんだ。攻撃のための武器を持ったところで僕たちは焦り、そして間違いを起こしてしまったようだ。そしてそれが、犠牲者だけではなく、膨大な数の国内外難民を生んだ一因なのかもしれない。」

「あるとき僕は、仲間に僕たちのやり方は間違っていると言った。その答えは、自分たちに不利になるようなことは言うな、というものだった。」

「なんということだ。その受け答えはどこかで聞いた事があるじゃないか。僕はそう思った。僕たちは自由を求めてデモを始めた。だけど、行き着いた先はこれか?これじゃ、今の政権のやり口と同じじゃないか。」

「僕は失望した。仲間のある者は映画のワンシーンみたいに、敵に向かって行って死ぬのをよしとしている者もいる。でも。僕は、それは無駄な死に方だと思った。それじゃ、何にも変わらせることは出来ない。それもあって、大学に入り直し、まずは避難民の支援をやることにした。」

じゃあ、もう改革にはタッチしないの、という私の愚問に、彼は答える。「僕は今も戦っているんだ。何人友達が、そして親戚が、大切な人たちが死んで行ったと思ってるんだ。彼らのためにも、改革を求めない訳がない。戦いをやめたわけでもない。」

まだ支払わねばならない代価の重みは、背負って行くしかないんだ、と言って、彼は、まっすぐに私に視線をむけ、口をつぐんだ。

この言葉は、未だに、鮮明に私の耳元に残っている。

2013-01-05

アンマンの片隅で



「私たちのほうが、男たちよりよっぽど元気があるし、強いのよ。」

ヨルダンでは、アンマンの片隅にもシリアからの避難民の人たちがたくさん住んでいる。その中には様々な理由で、母子家庭として生活せざるを得ない女性がたくさんいる。慈善団体からの支援が、とりあえずあるものの、数人の子供をそれだけで育てて行く事は困難である。

このような状況のなか、昨年の9月頃から、彼女らの収入を確保しようと、シリア人と地元の有志が寄り集まり、手工芸品製造販売のグループを作った。ホムスか ら逃れてきた「肝っ玉母さん」ウム・イスマイールが先生となって、まずは3人の女性とともにビーズ細工や、壁掛けなどの飾りものを作り始めた。この輪は次 第に広がり、今では約30人の女性が緩やかにまとまり、細々ではあるが、手工芸品を製作している。

「マーケティングに問題があるのよ。とにかく自転車操業。だけど、今彼女たちは月に平均80ディナール(約10000円)くらい稼げるようになったわ。生活費全部は賄えないけど、今にもっと稼げるようになるって、ちょっと期待してるの。旦那が居なくてもなんとかやって行かせてやらなきゃね。」

ウム・イスマイールは私の知っているシリアン・スマイルを満面に浮かべた。

「最初始めた時は、ここに逃げて来ている女性たちが、こんなに真剣になってやるとは思ってなかった。だけど、彼女らのモチベーションは日に日に高くなっている。やってる本人がびっくりしてるのよ。」

彼女らは、普通自分たちの家で暇を見つけて仕事をし、出来上がった「製品」をウム・イスマイールや、他のシリア人、地元ヨルダン人のボランティアが集め、販売する。

私 が昨日ウム・イスマイールの所を訪れた時は、近所に住んでいるという一人の女性が、5歳くらいの息子を連れて一心に針を動かしていた。「たまにこんな風に うちに来て仕事をする事もあるのよ。」と、ウム・イスマイールは言う。ご近所さんやら、親戚やらが常に行き来する、シリアでよく見かけるコミュニティーの 付き合いがここでも生きている。

「ここでの違いは、ダラアから来た人もいるし、ダマスカスからいた人も居るし・・・つまり、いろんな所から来た人がいるってことね。」

「昔はダラアだとか、ダマスカスだとかって、同じシリアでも遠い所だと思っていたけど、ここに来て、みんなシリア人なんだって、初めて感じる事が出来た。みんな一緒なんだって。」

ウム・イスマイールは、続ける。「でも、状況が少しでも収まったら、もちろんホムスに帰るわ。家?潰されたって聞いてるよ。だけど、帰ったら、私はテントでも張って住むわよ。そんな事、全然平気。自分の土地に帰って住めるんだったらね。」

帰りがけに、じゃ、また今度はシリアで会おうねと、ハグしてくれたウム・イスマイールの腕は暖かく、逞しかった。

メディアは年が明けても暗いニュースばかりを伝えるが、雑然としたアンマンの裏通りに、思わぬシリアを見つけた。

心が少し軽くなったような気がした。


2013-01-03

新年の祝砲


「普通、祝砲は空砲で、一時間もしないうちに終わる。だけど、僕たちの新年の祝砲は一日中続いている。実弾でね。」

元旦にメッセージを開けると、銃撃や砲撃の「祝砲」で明けたアレッポの新年を伝える甥っ子ハムドゥの一文があった。「夜中じゅう銃声が響いていた。僕たちは、地下のシェルターで新年を迎えたよ」

ハムドゥの村は壊滅状態で、アレッポ市内から避難してきた元判事の義弟一家と、隣村に一緒に住み始めた。この義弟の家はアレッポのハールディーエという、大きなスークのある地区にあるが、スーク自体は、今、店はほとんどしまっており、昔の面影は、全く失せているらしい。

ただ、「みんな一緒に居るから、何となく少しだけ、安心な気がする。そんな新年だよ。」とハムドゥは続ける。

アレッポに残るクリスチャンの友人は、元旦の夕方に、「新年おめでとう。今、一人でアラクを飲んでいる」とメッセージをよこしてくれた。彼の家族は、全て東欧のある国に縁者を頼って逃れており、彼も春には家族に合流する予定だと聞いている。「一緒に飲みたいな」と返事をすると、「今はだめさ」とのタイピングを最後にオンラインから消えた。

国外に避難している友人は、「夢は大きすぎて、神様だけが実現できるもの。私たちは最良の状況を願うけど、最悪の状況への準備もしているわ。」という新年を祝う言葉を含まない「抱負」を告げて来た。

唯一の救いは、先頃修士論文を書き上げたAの受け入れの可能性を告げる、イタリアのある大学の友人のメッセージである。

今のシリア人にとって、新年は、昨日の次の日に過ぎない、と知ってはいても、一筋の希望を捨てずに彼らに寄り添いたい。そんな事を思いながら、アンマンでの一人の正月を過ごしている。

2012-12-23

シェルターに作られる学校



現在、アレッポのほとんどの小・中学校は機能していないという。この危険な治安状況の中、親は子供を学校に送る事ができず、または授業ができる状況ではないことの他、学校自体が破壊されてしまっている場合もある。

しかし、このような状況の中で、学校を作ろうと動いているグループもある。

カッラーセ、あるいはブスターン・アル=カスルはアレッポでは貧しい層の人々が住む地区であるが、紛争以降、さらに状況は厳しくなっている。度重なる戦闘は、シリア中で家をなくし、家族をなくし、収入のすべを失った人々を生んでいるが、この地区のような極めて貧しい地区の人々は、国外に出るにも頼るべきものがない。また多くの人が、死ぬのであれば自分の住んでいた土地で死にたい、と地区から出ない決意をしている。

学校作りを始めたグループは、この地区を紛争当初から支援し続けている若者たちで、緊急支援物資を国外居住のシリア人有志から集め、ここに残った人々を支えて来ているが、この数ヶ月のあいだこのような状況であっても子供の教育をないがしろにしてはならない、と学校をつくりはじめたのである。

しかし、「地上」に作ると、攻撃にさらされる可能性があるということで、地下のいわゆるシェルターに教室を用意しているという。教師は、もと一般学校の教師の内の有志を募り、教材、テキストを今収集中のようだ。生徒は180人ほどで、新年の開校を目指している。

このグループの一員の若者Bは言う。「僕たちの支援グループの何人かは、支援活動の最中に狙撃をされて亡くなった。そのうちの一人、Mはこの国の将来を考えるたびに、学校機能が麻痺している事を非常に憂いていた。こんな状態だからこそ、子供たちはちゃんと教育されなければ、と僕たちは彼の意志を引き継ぐことにしたんだ。」

「何もないし、先生たちだって、ある程度の給料を払わないと、彼らの生活も危うい。だけど、やらないといけない。そう信じている。」とBは続ける。

シリア人の挑戦は、戦闘だけではない。彼らはこのどん底で将来に挑戦し実践している。

2012-12-12

生きるための算段


「エジプト航空がダマスカス・カイロ便をストップした。アレッポ・カイロ便も16日には止まる。」

アレッポの旅行代理店のJが、2日前に久々にスカイプ通話をかけてきてくれた。しかし、彼のニュースは、シリアが空路でもほぼ封鎖状態になってしまったことを示すものだった。彼はその時ダマスカスのエジプト航空のオフィス二いるという事であったが、いろいろな問い合わせがあるものと見えて、大声で話す周囲の人たちの声に、スカイプ会話は何回も中断された。

ダマスカス・カイロ便のストップは、緊張の度合いが極端に激しくなったこの一週間の状況を受けてのことで、16日のアレッポ・カイロ便が止まれば、外国の航空会社は全てストップした事になる。

じゃあ、空路で国外に出るにはどうすればいいの、と聞くと、シリア航空がひとりベイルートまで飛んでいる。空路で国外に出るには、まずはベイルートへ行き、そこから乗り継ぐことになる、と答えてくれた。

数ヶ月前、アレッポが極端に危険になって来た頃、エジプト航空のシリア代理店であるJは、「僕が進言すれば、今でもアレッポ・カイロ便を停止できる。だけど、今は国外に出たい人がいっぱいいる。僕がやめたらこの人たちが外に出られなくなる。」と、砲撃も頻繁になったアレッポの中心街アズィズィーエのオフィスを閉めなかった。

今回は、エジプト航空関係に関しては中断せざるを得ないが、彼は自分のビジネスを潰すまいと動いている。去る9月には、フランクフルトの旅行代理店関係の見本市にいる、と意外にもドイツから連絡をくれた事がある。その時は、この状況では今に我々のビジネスは壊滅だ。こんな状態だからこそ、次のステップを考えてこんな見本市のような所に来ているんだ、と言っていた。

今回も、ダマスカスでの「残務処理」を終えたら、ベイルートに行き、そこでもいろいろ画策して数日後にアレッポにも戻るとのこと。彼は決してアレッポを捨てない。次の段階が来る事を見越して、動いている。僕たちは最近、「・・を願う」、とばかりしか言わなくなった、と苦笑いをしながら、願いをいつでも現実の行動に変えられる日がくる事を否定している訳ではないことが、伝わってくる。

多くの人が家を追われ、国を出て行くか、否か、あるいは生きるか死ぬかの状況にまで追いつめられている。しかし、にも拘らず、全く予測のつかない将来を視野に入れて、人々は生活する。パンや、燃料が不足したり、なかったり、の日常だけが彼らの関心事ではないのだ。

彼だけではない。甥っ子のハムドゥーも、もう戦闘員しかいなくなった村の家に戻り、死の危険を冒して大学院修了証書を持ち出して来ていた。Aも、論文を書いて、「修士」の口頭試問の手続きを何とか進めようとしている。大学の講師となった元学生の幾人かも、後輩たちのためもあるけど、キャリアになるから、と危険な中を大学の講義に出かけて行く。

「今は、死ぬのは簡単だ、でも生き延びるかも知れないじゃないか。そうなった時のために、死にそうになりながら、書類をとってくるんだ。」そんなものどうでもいい、命を賭けてまでとりに行くものじゃないよ、という私の「忠告」は彼らの現実の前では、「現実的」ではない。

2012-11-30

義弟マフムードの死


義弟のマフムードが死んだ。

スカイプで別の友人と話していたときだった。久しぶりにトルコにいる義理の姪の主人からメッセージが入った。友人とたわいない話を続けながら,メッセージを開いたとたん、目に飛び込んで来たのは、

マフムードが殉教しました。哀悼の念をあなたに。

という、わずか一行の簡単なメッセージだった。
のどの奥から、熱い自分でも抑えられない呻きがわき上がった。苦いものがこみ上げてくるような気がした。

しかし、なにかしら、予想していたことでもあったのだ。彼がトルコからシリアに再び入り、アレッポ郊外で結構大きな部隊を率いていることを甥っ子のハムドゥーから聞いたとき、彼は長くはないと思った。その胸騒ぎが、的中した。

何が彼を戦線に駆り立てたのか。彼は離反者である。死刑宣告は前から出ており、シリアに入ったら、即刻死刑だぜ、と笑い飛ばしていた。アレッポに入る以前、彼は政治亡命を考えているとも言っていた。家族のことを考えてのことであろう。だから彼のアレッポ入りを聞いたときは、彼の行動にはそれなりの意味があると思った。

彼の死をどういう風に受け止めていいのか、わからない。平和な私たちのアジェンダが一つずつ崩れている。それだけは確かである。
そして、アジェンダの乱れはわたしだけのものではない。シリア全てがこの不確定さの中にあることに、いまさらながら気づいた私は、なんと鈍感であることか。

ハムドゥーともいつぞや話した時、彼は自暴自棄になっていたことがあった。しかし、その後死ぬのは後回しにしたよ、とアレッポ郊外で被害者の救援活動をし始めた。もちろん、彼のやっていることに命の保証はない。

同じく、今日パリに避難しているSさんの夫、Nさんは、こんな中で、アレッポに戻って行ったらしい。どうして?何かどうしようもない理由でもあったの?と 聞いたが、Sさんの答えは、「何もないのよ。だけど、彼はアレッポが恋しくなったの」というものだった。

今シリアでは、誰もがあらがうことのできない求心力によって、人が戦いの場に吸い込まれて行くようだ。

2012-11-19

笑みの消えた顔


今月のはじめにヨルダンのシリア避難者キャンプ(ザアタリ・キャンプ)を訪れる機会を得た。キャンプの周囲は、緑もなにもない、きわめて乾いた土地である。すぐわきにザアタリの集落があるにはあるが、僻地には変わりない。

キャンプの中に入ると、まず目に入ったのが、新しくシリア国境を超えてきた避難者たちに必要最低限の必需物資を配る光景であった。60才くらいの女性が配給されたと思われるマットレスに腰掛け、その娘とおそらく息子の嫁、そして孫と思われる数人の子供たちが彼女を取り巻いている。

話を訊くと、ダラアから逃れてきて、今日の朝早くキャンプに着いたという。足下をみると、女性たちは全てサンダルばきである。シリアでよく見かける、質の悪いプラスチックのサンダルだ。ダラアから歩いて国境をわたってきたというが、数十キロをこの履物で、道無き道を歩いてきたのだ。しかも、5人ほどの子供連れである。一番小さい子供は小学1年生だという。

また、少し離れて女性が数人いた。このグループはホムスからの人たちだった。とりあえずダマスカスまで出て、その後国境越えを決行したようである。その中におびえたような顔をした、無言の女性がいたので、彼女は?と訊くと、他の人たちが、彼女はアレッポからだという。思わず同郷人にあったような気がして、アレッポのどこ?と尋ねるとシャアール(アレッポ北東部、激戦区のひとつ)だと言ったきり、やはり怯えたように遠くに目をやった。

アレッポのことが訊きたかった。だけど、訊いてどうなるのか。町が、そして周囲の村がめちゃくちゃだということは、友人たちとのチャットで訊いている。それを、ことさら、この彼女に訊くことに何の意味があるのか。少なくとも、彼女の呆然としたような表情は、何を訊かずとも、全てを物語っている。

彼女も、きっとかなりの間をここで過ごすことになるのだろう。そして、数ヶ月キャンプ生活をしている他の人たちのように、キャンプ内の不自由さ、望郷の念、亡くなった肉親や友人への思いを、ようやく語りだすようになるのかもしれない。しかし、彼女は、今はそれすらできない。

写真や、ビデオでみたアレッポの荒れ果てた様子が、彼女の背後に見えたような気がした。

あの暖かい笑顔を失ったシリア人に会うことがこんなにつらいことだったとは。