2012-03-30

アレッポの爆破事件


2月10日。

夫が亡くなって2日後の金曜日。早朝に親族で墓参りをした。墓と言ってもまだ墓標もない土饅頭の上に、乱雑にオリーブの木の枝が置かれているだけで、なんとも殺風景である。この墓のすぐ脇に住んでいる義妹は、昨日も今日も、朝方、コーヒーの好きだった夫にコーヒーを運んで来た、と言っていた。

墓参りを済ませ、家に戻り、弔問客が来るまでに朝食を済ませようと、用意を始めた頃であった。

「ドーン」と言う大きな爆発音とともに、振動を感じ、窓ガラスのきしむ音がした。

びっくりして反射的に窓のところに寄ったら、南の方角にあるモスクの方に大きな白い煙が上がるのが見えた。煙はどんどん高く上っている。爆破?!まさか?! あの方角には大学がある。一瞬、大学がやられたのかと思った。時計を見たら、9時ちょうどであった。

みんなはおどろいて一瞬緊張したが、再び平静に戻り、朝食の支度を始めた。私は、とりあえず今見たことを大使館に伝え、無事を報告したほうが良いだろうと考え、まずは担当官の携帯に電話しようとした。

しかし、携帯は通じていなかった。何度か試みたが、通じないので、しばらく置いて、家の電話から、大使館の地上電話にかけた。しかし、金曜日で留守電になっていたので、無事を伝えるメッセージを残すしかなかった。

11時ごろようやく電気も来たので、テレビをつけると、シリアの国営放送が爆発現場の中継をやっていた。この報道で、場所は大学よりもさらに南にある治安機関の建物と、空港へ行く道にある別の治安機関の2箇所で、ほぼ同時に爆破されたことがわかった。私には一つしか音が聞こえなかった、と言うと、夫の息子は、「僕は2つとも音を聞いたよ」と言っていた。彼は外にいたらしい。

放送では、現場の惨状や被害者の遺体などが生ナマしく映し出されていた。子どもの死体もあったとのレポーターの報告に、皆、「あんなとこに金曜の朝早く、子どもがいるわけないじゃない。」と口々に言う。

皆、国営放送の言うことは常に眉にツバをつけて聞いている。勿論、爆発は確かにあった。私たちはこの目で見たのである。しかし真相がなんであるのか、誰も確かではない。

確かなのは、アレッポでもついに爆破事件が起きてしまったと言うことだった。

テレビの画面では、インタビューを受けた人たちが、この無差別テロを口々に非難している。

それを見ながら、夫の「危ないよ」という声が再び耳に蘇った。

葬儀


2月8日。

イスラム教の葬儀は、至って簡素である。

夫の遺骸が清められたことを告げられて、再び家に入ると、白い布に包まれた夫がいた。先ほどと変って顔色が若干くすんで見え、不思議なことに体はあっても「存在」を感じなかった。

布は、顔が見えるように巻かれていて、最後の別れを告げるように言われた。思わず触れようとすると、清めをしてくれた男性に、「触れてはダメです。ハラーム(禁忌)ですから。」と止められた。

悲しかったが、皆と同じように、ファタハを唱えて、また部屋を出た。遺骸はモスクに移動され、その後埋葬と言うことであった。

外に出て、奈々子と一緒に呆然と立っていたら、親戚のHが車に乗るように促してくれた。車の中で30分ばかり待っただろうか。棺を載せた車が出発したことが告げられて、私たちの車も動き出した。

しとしとと雨が降っていたが、車が進むにつれて、鈍い冬の日が雨の中に差してきた。

少し走ると、棺を載せたピックアップが前に見えた。ピックアップに載せられた棺を守るように、数人の男性が荷台に乗っていた。いつもはひょうきんな従兄弟のハミード(夫と同姓同名)が、やりきれない様な顔をして乗っているのが見えた。葬列は、殉教兵士のそれのようであった。

女性は、墓地の中には埋葬が終わるまで入れない。しかし、裏口のようなところから、夫を包んだ白い布が男たちに運ばれているのが少し見えた。

私は、ふと、夫の好きだった日本の歌を口ずさんだ。もしかしたら聞こえるかもしれない。

埋葬が終わり、夫の埋められた場所に行き、女性みんなでファタハを唱えた。アレッポ地方特有の粘土質の赤い土が、雨で湿って固まりになっているところがあった。埋め方がへたくそだわ、となぜかそんなことを思った。

あとで聞いた話であるが、イスラムの教えでは、人は亡くなると、魂は一旦体を離れ、まずは非常な高みに上り、埋葬の瞬間再び体に戻るというが、それは本当のような気がする。

亡くなってすぐに対面したときは、彼は確かにまだそこにいた。しかし、清められた体には、彼の存在を感じなかった。しかし、墓地で、歌を聞かせたいという思いにかられたのは、彼が再び戻り、私にそれを求めたからではないのだろうか、と今でも思うのである。

2012-03-27

閉塞感


今まで、先月(2月)のアレッポ滞在のことを書いてきたが、帰国後もシリア情勢が良い方向に向かっているとは思えない毎日が続いている。

三月中旬にもダマスカスとアレッポで連続爆破事件が起こり、いよいよ見境のない殺戮がこれらの二大都市にまで及んできた。コフィー・アナンらの交渉も、なんら事態を前に進めるに至っていないようであり、友人らも、明日の読めない日々を過ごしている。

先週の金曜日、アレッポ市北東部ミーダーン地区に住んでいる教え子とチャットをした。
「どう?元気?」と聞くと、「元気ですよ。私たちは大丈夫。」と言ったあと、「でも今日、家のすぐ近くで爆破未遂事件がありました。」という。「えっ」と驚く私に、彼女は平然と、「でも、爆発する前に発見されて、全然平気でしたよ。」と続ける。

『フェースブック』を見ると、彼女の友人から彼女のウォールへのポストで、「すぐ近くだったみたいだね。」というのがあった。「大丈夫なわけないじゃない。ほんとにすぐ近くだよ。」と言うと、「でも、お姉さんはあのあとスークに買い物にも行ったし。私たち、もうかなり慣れっこになってきました。」と返ってきた。

さらに、昨日、旅行代理店をやっている友人からはこんな話しを聞いた。

状況はどうかと問う私に、「治安状況とかは、君が2月にいたときより悪くなっているけど、私の商売は悲しいかな、今すごく繁盛してるんだ。」と言う。「どうして?」と聞くと、カイロ行きの便を使う客が非常に多くなっているのだと言う。ただ、と彼は続ける。「みんな片道チケットなんだよ。しかも、カイロからリビアに飛ぶんだ。」

リビアでは、革命後、いろいろなプロジェクトが立ちあがっているらしく、シリアで職のない、どちらかと言えば貧しい層の人たちが、仕事を探しにリビアに行き始めたようなのである。
 
「だから、いくら儲かっても手放しでは喜べない話しなんだよ。」「政府は、我々は十分に知ってるよ。40年付き合ったんだから。君も知ってるだろ?だけど、じゃ、反政府側はどうかって言うと、一枚岩じゃない。」イヤホンにため息が聞こえてくる。

アレッポは、春の陽気になりつつあると言うが、彼の声は低く、いつか変るであろう状況を一日一日待つしかないのだ、とつぶやいた。

2012-03-26

別れ


2月8日。

朝9時ごろ、まだ迎えが来るには早いかな、と思いつつも用意をしているところにハムドゥからの電話が鳴った。もう下に来ているという。今日に限って奈々子も連れて降りてきてくれと言うので、娘をせかして下に下りた。

通りに出ると、ハムドゥが、病院とは反対の方向に行くタクシーを止めた。「あれ、どうして」と言いかけたが、黙って乗り込むと、すぐに500mばかり先にある夫の息子の家の前で止まった。私が不審な顔をすると、ハムドゥは「降りて」と言った。「どうして」、とまた言おうとしたとき、ハムドゥが搾り出すような声で、「おじさん、亡くなったんだ」と言った。

言葉が出なかった。周りの風景が沈んでいくのを感じた。

タクシーを降りて家のほうに近づくと、夫の弟のFが歩道のところに立っていた。ふらふらと近づいていくと、Fの悲しそうな顔がうなづいた。何のしるしか、わかりたくなかった。彼に何かを言おうとしたが、声にならなかった。「行ってやってくれ」と彼が短く言った。

何がなんだか、わからなかった。奈々子がついてきているかどうかを確かめたような気がする。

何をしていいのかわからないが、機械的に階段を上る。階段を上ったところに泣き顔の息子がいた。どうしてみんな泣いているのだ。それが不思議な気がした。

家に入ると、親戚の女性が大勢いて、泣いている。夫が中央に、毛布にくるまれて横たわっていた。妹の一人が手を取って、夫のそばに寄らせてくれた。触ってみると、まだ暖かかった。まだ、何が何かわからなかった。唇に、チューブを入れたときの傷がまだ残っていた。

みんなが泣いているから、泣いた。だけど、まだ信じていない自分があった。しかし、涙が止まらない。現実感はなかった。なぜ泣いているのか、自分でもわからなかった。顔を近づけたら、懐かしいにおいがした。まだそこにいるじゃない。何も変っていないじゃない。

ふと、目を上げると奈々子が立って泣いていた。そばに寄せて肩を抱いた。

別れと言うものは、こんなに突然くるものなのか?これが別れなのか?喉から声にならないものがこみ上げてくる。

一時間ばかり経っただろうか。葬儀の用意をする人たちがやってきて、外に出るように言われた。外に出たら、ハムドゥがいた。

「昨夜、起き上がろうとしたのは、さよならだったんだろうか?わかんなかったよなあ」と言って、嗚咽した。

近くのモスクから「故人ハミード・ハンマーデのためにファタハを(コーランの一節)・・・」という呼びかけが聞こえてきた。夫の名前が他人の名前のように聞こえた。

近郊の村での話


2月7日。 

夕方、やはりハムドゥと病院へ。この日は、私は自分でも不思議に思うくらい饒舌で、昏睡状態の続く夫に話しかけ続けた。ドクターがこちらを伺っているのはわかったが、「もうちょっと」と、とりとめもない話しをし続けた。目や口が動くのは、私の話に反応している証拠だと思いつつ。口の動きは今までより、もっと物言いたそうである。

とはいえ、さすがにもう退室しなければ、と思い、「じゃ、また明日の朝ね」と言ってベッドから離れようとしたとき、夫が大きく体を動かした。医療機器の画面が、真っ赤にかわったので、私もハムドゥもびっくりして、ドクターを呼んだ。ドクターが飛んできたが、それと言った処置をせずにまたもとに戻ったので、とりあえず、もう一度夫に「じゃ、気をつけてね」と言って部屋を出た。

病院を出ると、ハムドゥは、叔母たちが家で私を待っているから、ぜひとも来てくれと言った。彼らは、病院から15分くらいの村に住んでいるが、反政府の人たちがたまにバリケードをくんだりするということも聞いていたので、ちょっと躊躇したが、少し彼女らとゆっくり話しもしたかったので、行くことにした。

今晩は、みな妹の中では一番年上のアミーナのうちに集まっていた。田舎の家に特有の、絨毯を敷き詰めた広い客間に入ると、彼女らのダンナ連中もいた。
みんなに夫の病状を聞かれ、起き上がるような素振りを見せたことを告げると、ひょっとしたら意識が戻るかも知れない、というちょっとした期待に包まれた。
ひとしきり、その話しをしたあと、やはり、今のシリアの状況の話しになる。

村でのデモの様子なども話題に上った。治安関係の者は監視しているけど、俺たちが睨みをきかしているから、めったなことはしないよ、と軽いノリで、一番下の妹のダンナが言う。「その関係者は、村の人間だからね、下手なことをすると村にいられないから、まあ、監視はしているけどね。」と言うことであった。

お茶を飲みながら、拘束されて帰ってきた友人の話、自分たちの今の状況に対する考え、日常生活への影響などの話しが次々飛び出す。彼らは自営業でもあり、昔から政府の腐敗などについてよく文句を言っていたが、今は各地での暴力行為を見聞きするにつけ、先鋭的ではないにしても「反政府」的な物言いに拍車がかかってきたようである。

また、彼らは隣村やその近辺の村は一種の独立国みたいになっている、と言っている。その話しは夫からも聞いていた。シリアという国は歴史的にそうである。現在でも表面を覆うカバーを取り除けば、モザイク状の部族社会が顔を出す。部族色の薄れているところもあるが、まだ村落部は基本的にはこの単位でコトが動いているのである。

考古学では、国家形成プロセスの研究は最も重要なジャンルである。しかし書物に書かれるセオリーは、無辜の人々の血に触れることはない。

不幸にも、生身の歴史とは、それを体験せずには済ませられないのだ、とBGMのように流れるアル・ジャジーラの報道を聞きながら思った。

2012-03-21

近くのショッピングモール


博物館から帰ると、Sさん宅は留守だった。どうしようと思ったが、娘の奈々子が、「近くのモールに行かない?」という。このモールは歩いて行ける範囲にあるので、以前はちょっとした買い物によく利用した。「でも、歩いて?大丈夫かなあ」「ま、二人だし、昼間だし、いいんじゃないの」と言うことで歩き出した。

Sさん宅のすぐ脇の道には、ちょっとした緑地があり、娘も含め、近所の子どもたちの遊び場であった。その頃の子どもたちのさんざめきを思い出しながら、モスクから降りてくる道を横切り、住宅街の中の道を抜け、洋品店の並ぶ道に出た。

しかし、店は軒並み閉まっている。午後から開くところもあるということであったが、もう2時を回っている。曇り空だったせいもあるが、なにか寒々としている。

モールに入ったが、客はまばらである。4階まであるので、まずは上から見てみようと、エスカレーターを上った。驚きだった。ここでも洋品店、化粧品店が軒並み閉まっている。店じまいをしてしまっているのだ。ここの洋品店は、以前トルコ製のものを扱っていた。制裁の影響なんだろうか。携帯関係の店だけがかろうじて開いている。

地下の食糧品コーナーに下りると、前と配置が変っており、品数がぐっと減っていた。ここでは客は私たちだけだった。なんだか来てはいけないところに来てしまったような気がした。このコーナーのカウンターには以前教え子が勤めていて、行くたびに、「先生、元気?」と笑顔で話しかけてくれた。今は、カウンターに誰もいない。

おなかが少しすいてたので、モールの1階にあるハンバーガーショップに行った。若者が数名と男女二人連れがいたが、照明も暗く、店自体の活気がないせいか、お客までが静かであった。

舞台装置はそのままで、異次元空間に入り込んだような錯覚にとらわれる。あるいは、浦島太郎?懐かしい海辺に帰ったら、誰も知る人がいなくなっていた・・・そんな感覚である。BGMが力なく鳴っている。

雨が降りそうな空模様になってきて、店内がさらに暗く感じられた。他のお客がシルエットのように見える。

頼んだハンバーガーが来た。以前と同じ、大きなハンバーガーである。だけど、のどを通らない。一緒に頼んだアイラーン(ヨーグルトドリンク)で、流し込むように食べるしかなかった。

2012-03-20

考古局にて


2月7日。朝、やはりハムドゥと娘と一緒に、大学病院に行き、夫を見舞った。相変わらずの昏睡状態だが、話しかけると目はよく動くし、口も、もの言いたげな感じで動く。もどかしい。でも、何か心通じているような気がして、少し心が緩んだ。

病院を出たのはまだ早かったので、ハムドゥが、「博物館に行かないか、局長が一度顔を見せてほしいって」と言った。局長とは先日病院で簡単に挨拶しただけだったし、他の友人たちにも会いたいと思い、博物館へと向かった。ちなみにハムドゥは、あと二人の教え子たちと一緒に数ヶ月前から考古局に勤め始めている。

博物館への道中、まちなかの店が、ほとんど閉まっているのに気がついた。11時ごろであった。午後からボツボツ開け始めるけれど、前みたいに朝から明けてる店はないと言う。店が閉まっていると、なんと町がさびれてみえることか。冬の弱々しい陽が、色のあせたシャッターに当たっている。

博物館が見えてきた。観光バスや、観光客がいないと、ここもえらく寂しく見える。シリア滞在の20年間、常にこの博物館と密接に関わって来た。アルスラン・タシュ遺跡出土の玄武岩製のライオン像が考古局棟の入り口階段の左手にひかえる。このライオン像を遺跡から運び込む際、夫は指を挟まれ、左手の中指の先が割れたままになってしまった。夫は冗談で、ライオンに咬まれた名誉の負傷だよと、この不恰好な指をいつも自慢していた。

局長室には来客があるということで、教え子たちのいる発掘部の部屋に行った。他のスタッフも数人いて、再開を喜んでくれた。教え子の一人は女性で、イドリブ近郊から通っているが、最近は週日はアレッポの親戚のうちに身を寄せていると言う。週末に実家に帰るのだが、このところ、帰れないことも多いと言う。

また、時にアレッポに出てこられなくなることがあるが、携帯が機能しないことも多く、欠勤の知らせが出来ないこともある、とこぼす。他のスタッフは、それを言い訳にサボってんだろ、とからかうが、皆事情はよくわかっている。

発掘部は、考古局の中では最も忙しい部局である。特に外国隊の押し寄せる春から秋にかけては、管轄局内外でフィールドに出なければならない。しかし、昨年から様相は一変している。外国隊は昨年の春以来、シリアでの調査活動を停止している。

以前は冬季でも、出土遺物の整理や研究のために外国人研究者がちょくちょく考古局を訪れていた。日本では書物の中でしか会うことのなかった著名な研究者たちが、よれよれの作業着を着てうろうろしているのに良く出くわしたものだ。彼らとのちょっとした会話が、どんな発掘報告書よりも豊富な情報を与えてくれ、また大きな刺激も得ることができた。現在の状況は、せっかく考古局に入った教え子たちに、そのチャンスを与えない。

2012-03-15

教え子たち(その2)


見舞いに来てくれていた学生のうち、Wは車で来ていた。送っていくと言ってくれたので、みんなで彼の車に乗り込むと、Wは、「久しぶりにみんな一緒になったんだから、うちに来てお茶でも飲まないか?」と誘ってくれた。

9時を回ったところで、以前のアレッポなら、何の問題もなく、即決で「行こう」となったはずである。しかし、今回はこの状況で、しかも前日、遅くなったことでSさんに心配をかけたこともあり、少しためらった。

だが、またいつこのような機会があるとも思えなかったので、Sさんには電話をして、寄り道をすることを伝えた。

Wは穏やかな性格の若者で、やはり修士課程で古代セム語の勉強をしている。父親は、政府系の地区委員のような地位にあり、若干他よりも恵まれた経済状況にある家庭である。しかし、彼の父親は今回の「革命」の中で、政府系の地位のために、微妙な立場に立たされているという。

車に乗ると、学生たちは、本音を言い始めた。Aは自分の町で起こっていることから考えても、政府を批判する立場だが、Wは、「正しいことをする者の側に立つよ」と「どちら側か」を明言するのを避ける。

彼の友達は、彼の父親の立場のことも考えて、Wのその態度を批判はしない。みんな、それぞれがどういう状況にあるのかということを理解し、自然に自分の意見を述べている。

状況が騒然としている場合、こういったちょっとした立場の違いが、大きないさかいになることもあるのだろうが、少なくとも彼らの話し方からは、分別のあるスタンスと言うものを感じる。個人・友人の間では、このように話し合えるのだ。なのに上のレベルでは・・、などと考え始めたとき、アレッポ南部の集団住宅の一画にあるWの家の前で車が止まった。

Wの家に入ると、Wの父親、兄、母親が総出で出迎えてくれた。シリアでは、どんな時間であろうが、客人を常に暖かく迎えてくれる。

家のなかには、パンの香ばしい匂いが立ち込めていた。「今、夜食にチーズのサンドイッチを作って食べ始めたところなんだ」と、山盛りの焼きサンドイッチを父親が運んできてくれた。甘い紅茶も「今入れたところだから」と注いでくれた。しょっぱいチーズが良くあう。

「こんなものしかなくて」と父親は恐縮していたが、闖入者をごく自然に迎えるシリア人のもてなしの心は、ここでも変らない。

日本人の友人が言っていた言葉を思い出す。「シリアはシリア人がいるからシリアなんだよね。」

熱い紅茶をすすりながら、胸が熱くなるのを感じた。

2012-03-13

教え子たち


2月6日の夕方、夫は大学病院に移った。昏睡状態は続いている。ただ、今日は話かけると目が動く。若干口も動かしたそうな素振りを見せる。ちょっとした動きに大きな望みをかけてしまう。

大学病院は、私立の病院に比べて、殺風景で雑然としている。しかし、医療設備は最新のものを入れ始めているとのことであった。15年以上前、夫の母を見舞ったのもこの病院だった。昔に比べてよくなったのだというが、薄汚れた感じの灰色の壁に、何かわびしいものを感じる。

面会を終えて、玄関のほうへ向かうと、昨年新しくアレッポ考古局長になった友人のY氏と、大学の教え子たちである数人が見舞いに来てくれていた。彼らは入室を許されなかったようであるが、私が帰ってきたことを聞きつけて、挨拶もかねて来てくれたのである。教え子たちは、私たちにとってみれば息子のような存在で、卒業後も折にふれ、会う機会を持っていた。

そのうち一人Aは、修士課程でエブラ文書(紀元前三千年紀の古代文書)に関係する主題を選んでいる。夫は大学に籍はないが、特別にAのための外部からの指導教官として指定され、面倒を見ていた。彼は、今一番状況が悪い町のひとつであるイドリブから来ている。スカイプ通話を夫とするとき、Aはたいてい横にいて、時々イドリブの状況を話してくれた。

Aから聞いたイドリブ県のアリーハの町の様子は、以前から不穏なものであった。特に秋以降、町では普通に銃撃戦があり、彼の叔母さんの家の窓ガラスに流れ弾が当たって壊れたこと、街中にある菓子屋で、政府軍と反政府軍の争いが起こり死傷者が出たこと、バスに武装した集団が乗ってきたことなど、具体的な話が多くなって来ていた。

話しを聞くたびに、大丈夫なの?と問うしかなかったが、彼は淡々と「だって、どこに行くこともできませんから。この町に家があって、家族がいて・・・。自分の町なんだから・・・。どうすることもできない、ただ、状況が良くなるのを待つしかないんです」と答えていた。そして、「近頃は、銃撃の合間を縫ってスーク(市場)へ行くコツを覚えましたよ」と彼は笑った。

町はおいしいさくらんぼで知られているが、今年はさくらんぼの季節に、街角で屋台のさくらんぼ屋を見ることができるのだろうか。

彼の母親は数年前になくなった。父親は、もうすぐ定年を迎える公務員、2歳年下の弟は病気がちである。二十歳すぎの妹がいるが、この状況では彼が一家の中心にならざるを得ないのであろう。彼自身は、学生院に在籍しながら、友人のツテでアレッポのさる事務所でアルバイトをしながら暮らしている。

夜9時を回っていた。今日はこれからどうするの?と聞くと、夜のバスはあまりに危険だから、アレッポの叔母のうちに泊まるのだ、と言った。

2012-03-10

兄妹たち


朝、10時過ぎにハムドゥに迎えに来てもらい、タクシーで病院ヘ向かう。

タクシーの料金は、普段通りだったので、「あれ、まともだね」と言うと、「ヤヨイ一人乗ってたらどうかわかんないよ。ま、みんながぼったくってるわけじゃない。今でもね」と笑った。

例によって、集中治療室に特別入室を許され、再び夫に話しかける。今朝は、眠っているのか、目が動かない。それでも呼びかける。なんとかわかってほしい。わかっていてくれていると信じていても、証がほしい。あまり呼びかけると、かえって疲れさせるのだろうか?そうであっても証がほしい。

15分ばかりたって、担当の医師に促されて、治療室を出ることになった。

治療室を出たら、夫の姉妹たちが来ていた。彼女らは昨夕、私が来るということを聞いて、いつもより遅くまで病院に残っていてくれたらしい。彼女らとも久しぶりの体面である。人懐こい「アハレーン、お帰りなさい」が今回はとりわけ心に染みた。

彼女らは、今はほとんどアレッポの一部になってしまった、すぐ近郊の村に住んでいる。生活様式はSさんの家族のように都会的なものではないが、「古きよきシリア」のひとつの典型をいまだに残している。

彼女らは、私をみると駆け寄ってきて、「兄さん、どうだった?変わりない?」と聞く。夫が「良くなっている」と私に言ってほしいのである。私が来るのを「ヤヨイが来たら、目を覚ますかもしれない」と待っていてくれたという。

簡単に今見た様子を伝えたが、それ以上のことが言えるわけもなく、ただ、大丈夫よ、というしかなかった。

病院のカフェにいたら、夫の弟のFがやってきた。悲しげだった。前よりもずっと老けたように見えた。夫とずっと喧嘩をしていたが、今回心臓発作が起きて夫が病院に運ばれたあと、見舞いに行って仲直りをしたという。

夫とダマスカスの高等裁判所の判事である彼とは、どことなく一族の主導権をめぐる確執もあったようだったが、それでも夫とは基本的に無邪気な関係であった。「兄さんは、もうだめだよな」と言うので、「まだ大丈夫。まだ遠くに行ってはいないよ」と答えた。彼は、「そう思う?」とうつろに返事をしてタバコに火をつけた。

「今晩くらいに、兄さんを大学病院に移そうと思ってる。長引くかも知れないから、この病院だと費用がべらぼうなんだ」といった。兄の病気に加え、自分の自動車学校で起こった事件、娘婿の一件、そして先の見えないシリアの状況が彼の肩にのしかかっているのが痛いほどわかった。