2012-04-09

避難生活


今日(4月8日)、久しぶりに教え子のAとチャットすることが出来た。彼は、イドリブ県のアリーハに住んでいるが、先日来、このアリーハの町での攻防が激しくなっているとの報道が続いており、消息が非常に気になっていた。

状況は?と聞くと、アリーハの町は危険で住める状態ではなくなっているので、10日前から、家族と一緒にアレッポに小さな家を借りて住み始めたという。

アリーハの町では、銃撃戦、爆破、その他あらゆる混乱が起きているようである。

「僕の家族はとりあえず大丈夫ですけど、すごくいっぱい死んでいるんですよ。」と彼は極めて直接的な表現を使った。

アレッポの借家はいくらかかってるの?と聞くと月15000ポンド(約3万円)と言う。余裕のある家ではない。彼と父親が働いてはいるが、物価も上がっている折、かなり厳しい出費であることに間違いはない。

しかし、彼らはまだアレッポで家を借りられるだけマシであるという。イドリブからは多くの難民が今トルコへと逃げ出しているのだ。また、アレッポに出てきても、家が借りられず、路頭に迷っている人たちも増えてきているようだ。

もう少し詳しく様子が聞きたいと思い、スカイプは?と聞くと、この数日ダメだと言う。携帯も、私が2月にアレッポにいたときは、彼がアリーハの町に帰ると使えないことがほとんどだった。空港から最後に挨拶を、と思ってかけたときも、ついに通じなかった。

しかし、今はあの時の比ではないようだ。あのころは彼は少なくとも、アレッポとアリーハの間を行き来していた。

2週間ほど前に、亡くなった夫を記念したシリアテレビの番組に出ることになっていたと聞いていた。彼は夫がずっと目をかけて、エブラ文書の個人教授をしてきていたので、一番弟子と言うことで、インタビューを受けることになっていたのだ。それはどうなったのかと聞くと、断ったと言う。テレビに出て、顔がうつるとやばいのだと言うことだった。デモに出ているようだった。

実際、一週間前にいとこが捕まってしまったという。アレッポのど真ん中で捕まったと・・・。

こんな混沌とした状況の中で、彼はとにかく修士論文を書き始めたらしい。「いいのを書いて、先生と亡くなったハミード先生に喜んでほしい」と言う彼の言葉に目頭が熱くなるのを感じた。