2012-04-18

アフマド・ムスタファ


アフマド・ムスタファはシリアの中でも最も古い友人の一人だろう。彼は、トルコ国境に近いユーフラテス川沿いの、小さな村、テル・アバルの住人である。

テル・アバルの村には、夫と私が発掘をした、紀元前6千年紀から4千年紀にかけての遺跡があった。「あった」と過去形で書いたのは、今は遺跡の大半が、ダム湖に沈んでしまったためである。

1989年、彼がまだ12-3歳のころ、私たちはこの遺跡の発掘を始めた。シリア隊の貧乏発掘で、村の少年たちを雇って掘っていたところ、ちじれっ毛の、細っこい男の子が、やはり雇ってほしい、と来た。アフマド・ムスタファだった。やらせてみたが、あまり力もなく、即刻クビにしてしまった。

次の年の発掘が始まったとき、彼はまたやって来た。前の年よりも背がかなり伸びていて、少したくましくなったようだった。再び、彼の「力量」のテストをした。今回は合格だった。

それ以来彼は毎年発掘に参加し、毎年「腕前」も上がり、背も伸びた。最終シーズンの1993年には、ほぼ人夫頭のような仕事振りであった。専門知識があるわけではないが、遺跡や遺物に非常に興味を持ち、楽しみながら仕事をしていた。

我々の発掘は終わってしまったが、彼は発掘の仕事が好きでたまらず、次の年からは、隣村(テル・アフマル)のベルギー隊の発掘に雇ってもらい、さらには、別の村のイタリア隊で働くことになった。

現金収入の少ないシリアの僻地の村であるから、発掘隊の人夫になるには、結構「競争率」が高いので、彼はわざわざアレッポの私たちのところまで、外国隊への推薦状を書いてもらいに来たことがある。

彼は、イタリア隊で働き出してから、10年近くになり、片言のイタリア語もしゃべることが出来るようになった。そして、結婚し、子どもも出来た。小銭も少し出来たのか、牛を買い足し、村で暮らすにはまあまあの収入もあるようになってきた。

コンピューターも買ったという。いつか、デジカメを買うから、店に連れて行ってほしい、と私のところに来たことがある。子どもの写真を撮るの?と聞いたら、それはそうだけど、遺跡の写真も撮るのだという。思わず笑ってしまったが、彼は悪びれず、だって、遺跡ってすごくいいもんだよ、と言った。

しかし、彼の言葉に、いまさらながらに気付かされた。これが、学問以前に遺跡で働くものに必要な感情なのだ。

彼は、歴史を語るわけでもなければ、博士論文のために遺跡を掘っているわけではない。しかし、掘る作業を通して、「好き」になってしまったのだ。そして、アレッポに来るたびに、近辺の村の考古事情を話してくれた。どこそこの村には、こういう感じの土器がいっぱい落ちているところがある、だの、どうも・・村の墓は盗掘されたあとがあるみたいだの、と。

彼の情報は、それなりに貴重だった。テル・アバルの村で、ダム湖の波に洗われて新石器時代の遺跡があることがわかったのも、彼の一報がもとだった。

その彼が、夫の葬儀の数日後にやって来た。夫の家の戸口のところに、真っ赤に目を泣き腫らした彼がうずくまっていた。二人で、夫の突然の逝去を再び嘆いたが、ふと、この状況でよくあの田舎からアレッポまで来ることが出来たものだと思い、道々どうだったかと聞くと、道中は検問が厳しい以外は、何でもないと言う。

「だけど」とかれは続けた。「僕の村も、隣村も、イタリア隊の発掘していた村も、毎日のように、殉教した兵士が運ばれてきて・・・近頃、葬式がやけに増えたよ。」

考古学の発掘をやっていたときは、墓を歴史のために掘っていたが、今、村の住民は、自分たちの子息の墓を掘ることを余儀なくされている。