2012-04-04

義弟M


2月11日。

爆破事件の翌日。爆破事件の余波は、この日の明け方まで続いていたようで、朝の話題はアレッポのあちこちで夜中じゅう続いた勢力間の掃討合戦(?)の話しであった。

この日も公園のところには銃を持った者たちがいた。ちょうど夫の男性側の弔問客を迎えるテントが見える位置にいるようだった。アレッポでは中流の家で不幸があった場合、弔問客(特に男性)を受け入れるために大きなテントが張られる。普通の弔問テントで「集会」ではないのだが、人の集まる場所であると言うこともあり、見張りをしているような気配だった。

この日は弔問客を迎える最後の日である。この3日間、ただ弔問客を迎えるだけの日々であったが、かなり疲れを感じたので、別の部屋で休んでいた。目を覚ますと停電になっていた。時間は夕方7時過ぎであった。今日は停電が早いなと思っていると、ホムスで警察官をやっている夫の弟Mが帰ってきた、という知らせを受けた。

急いで出て行くと、Mが停電時用の暗い明かりの中に座っていた。夫の姉妹たちも集まっていた。彼は、夫と20歳近く離れており、まだ30代後半である。この数年会う機会がなかったが、再開がこんな形で来ようとは。

「ヤヨイ、あんたはまだいいよ。日本から来て兄貴の死に目に会えたんだから。僕は目と鼻の先のホムスにいるのに間に合わなかった。」と彼はむせび泣いた。停電で、顔があまり見えなくて良かった、と思った。夫と結婚をしたとき、兄貴に日本人の嫁さんがきたことを最初に子どものように喜んでくれたのは、このトシの離れた弟である。その彼の泣き顔を見るのはつらかった。

夫が倒れたとき、彼はすぐにでも飛んで来たかったが、非常に厳しい都市間の移動制限のため、葬儀の3日後の今日までアレッポに来ることが出来なかったという。ホムス-アレッポ間は普通、車で2時間から2時間半である。

しかし、2月現在「激戦」が続くホムスへの陸路は大変危険で、ほとんど寸断状態にある。数ヶ月前から人々はアレッポ、あるいはダマスカスへ行く際には、地中海沿いの町ラタキアへとりあえず行き、そこから空路で移動するようになっている。

しかし、この空路も、皆が殺到してチケットが思うようにとれないらしい。Mのところにようやく来たチケットも、予定より1週間以上遅いものであった。

「日本から来たヤヨイに先を越されたよ。こんなことってあるかよ。」と再び彼は言った。嗚咽を抑えているのは、暗がりでも痛いほどわかった。