2013-12-24

ロシアン・ルーレット


また一人、友人が亡くなった。



数日前、電車のなかで、FBのメッセージ着信音が鳴った。何気なく携帯をみたら、結婚してフランスに住む友人のA からだった。



「弟のハンムーデが亡くなった。昨日は一睡も出来なかった。」



びっくりして、乗車して来る人たちの波に押されながら、入って来るメッセージの文字を追った。



「この一週間ばかり、毎日アレッポで樽型爆弾の空爆が続いている。心配はしていたけど、弟はあまり空爆の対象にならない地区に住んでいるから、大丈夫と思っていた。でも結局、彼は自宅じゃなくて、サーフール地区の勤め先の小学校でやられた。他に先生と子供たちも十人以上亡くなったようだ。」



アレッポのいわゆる「解放区」では、少しずつ学校が機能し始めた、と聞いている。Aの弟は、そんな学校の一つで最近、フランス語を教えていたらしい。私は、彼の弟には20年近く前に数回あった事があるきりだが、若干病弱であったこともあり、気弱な感じのする、もの静かな青年だったことを覚えている。



それでも数年前に結婚して、男の子が出来たと聞いていた。内戦が始まってからは、自宅が政府軍に押収されたあと、安全な場所を求めてアレッポ市内を転々としていたようだ。



「これが今のシリアなんだ、あそこじゃ、みんな、こんな目に遭ってるんだ。それはわかっている。でも、泣くのを止める事はできない。」



年末の夕方、電車はそれなりに込んでいた。混雑する電車の中で、携帯を見ながら、小さなディスプレイの文字がにじんで来るのを感じた。車窓の外は、東京のイルミネーション。でも、私の手の中には、一人の人間の不条理な死を告げるメッセージ。



その夜は、さらに甥っ子ハムドーのFBメッセージの着信音で目が醒めた。



「今日はまともに樽型爆弾が降って来た。すんでのところで、バラバラになるところだった。」「この前は雪が降ったけど、この所、アレッポは、樽型爆弾の雨が降っている。毎日がロシアン・ルーレットみたいに過ぎて行く。僕のこんな話に嫌気がさしただろ?でも、これがシリアなんだ。残念ながら。」



メディアは騒がなくなった。しかし、シリアでの殺戮は着実に進行している。

2013-12-12

雪玉



数日前の朝、ベイルートに避難しているはずの友人、アブ・アミーンがFBに「ヤヨイ、元気?今アレッポにいる。猛烈に寒い。吹雪が来るらしい。」とメッセージを送って来た。彼は家族とベイルートに逃れてから一年近く経つが、所用のため、一ヶ月ごとにアレッポに帰って来ているらしい。



「誰もいない家は、余計に寒さを感じる。だけど、僕にはまだ家がある。でも、家を追われた人たちはどうなのだろう。アレッポへの帰路で見た村々は、多くがゴーストタウンのようになっていた。ほら、ハミード先生たちと行った、ジャッブール湖畔の村だよ。覚えているだろ?あの村の人たちは、どこの寒空の下にいるんだろう。」



彼の独り言のようなメッセージは、途中で途絶えた。おそらく、停電か、ネットが切れたか。



彼が伝えてくれたとおり、昨日、今日と、シリアでは大雪となった。



シリアでは、時に雪が降る。そして雪が積もると、老いも若きも、誰彼なく町中で雪玉の投げっこを始める。ぼんやり歩いていると、どこからともなく飛んで来た雪玉にやられる。でも、誰も怒るものなどいない。嬉々としてやり返したり、逃げ回ったり。雪の日は、町中が無礼講なのだ。



雪への備えをしていない車は、スリップし、他の車とのニアミスも。ぶつけられると、それなりにもめたりはするが、でもなんとなく、雪に免じてそれほどの大きな騒ぎにはならない。



雪の日には、ほかほかと湯気のたつ暖かいサハラブ(コーンスターチでとろみをつけた甘いホットミルク)を売る道ばたの屋台は大流行りだ。ふりかけられたシナモンの香りが、熱いこの飲み物とよく合う。



陽がさしてくると雪は急速に溶けるので、人々はそれを惜しむように、雪を楽しむ。雪でべたべたになった服は、ストーブの煙突につけた物干に干し、その周りで熱い紅茶とカアケ(乾パン)を食べる。



そんなこんなが、シリアの雪の日の情景だった。



しかし、今のシリアには雪は脅威でしかない。雪が降り始めたと思われる頃に、早速フェースブックに吹雪の中に吸い込まれそうなみすぼらしいキャンプの写真がアップされた。



また、今朝は雪を被ったアレッポ城とアレッポの町の写真がアップされていた。こんな状況でも、アレッポ城は鉛色の空を背景に凛とたっている。



「破壊と、痛みと、死と、そして寒さ、にも関わらず、雪に白く覆われたアレッポはなんて綺麗なのだろう」と写真につけられたコメントは言う。



飛び交う銃弾が、再び無礼講の雪玉に変わる日を念じつつ。


















2013-12-05

刺繍糸が埋めるもの



トルコに逃れているシリア人避難民の女性たちから最初の刺繍が送られて来たのが7月9日。最初の便で送られて来た作品は、出来にばらつきがあり、非常に丹念に刺されているものもあれば、糸がうまく図案にのっていなかったり、刺し忘れの部分があったりした。



刺繍の先生をしている友人にアドバイスをもらい、細かい点を指摘したコメントを女性たちに伝えた。コーディネーターの女性は、私たちのコメントを素直に聞き、女性たちに伝えてくれた。



第一便から1ヶ月半あまり経って来た次の便は、私たちのコメントを反映して、細かい点が随分改まっていた。皆、がんばっていいものを作りたいとおもっているから、コメントがあったらどんなことでも言ってほしい。そうコーディネーターの女性は伝えてくれた。



直接指導ができないもどかしさがあるが、それでもコメントは一つずつ反映されて行った。



第四便を作成中、彼女ら独自で考案した、しかしシリアの伝統の形のモチーフを入れてもいいか、との問い合わせが試作品の写真とともに来た。可愛らしい壷をかたどったモチーフだった。一目で気に入った。そしてこの前届いた第五便には、人気のモチーフだった「モスク」をさらに彼女らがアレンジしたバージョンが入っていた。



色鮮やか、だけど、やっぱりどこかゆるキャラね、シリア人だわ、と届いた刺繍を額にはめ込みながら思った。



少しずつ進化している。それはトルコで避難生活を続けている彼女たちの感性の賜物。そして、その感性は日本にいる私たちをも動かしてくれている気がする。



しかし、支援の規模としてはまだまだ。今からまた冬が来て、暖をとるにもお金がいる。そんなことが心配で、と先日、現地のコーディネーターのMさんにもらしたら、彼女はこう言った。



「確かにそうだけど、彼女たちにとって、時間を埋めてくれるすべがあることが今は一番いいことなのよ。みて、こうやって一針ずつ空間を埋めて行く。それは時間を埋めて行く事でもある。何もしないで国のことや亡くなった人たちのことを考えるのは、ものすごくつらいことよ。しかも空虚な時間があると、悪い方にばかりものを考えてしまう。」



「彼女たちの名前を刺繍に書いたでしょ?あれがフェースブックにアップされたとき、彼女らがどんなに喜んだか、貴方は知らないでしょ。彼女らは、あれで、本当に遠くにいる日本人に、自分たちのことが知らされたんだ、って大はしゃぎだったんだから。」



「今度はグループで一番若いラギダの刺繍をアップしてやって。だって、彼女は自分の作品の番はいつくるの、ってものすごく楽しみにしてるのよ」



お金だけではないのだ。食べるものも、着るものも、中には寝る場所にも事欠くような、こんな異常な事態にあって、彼女らは喜びを見つけてくれている。



刺繍の艶やかな糸が、彼女らの微笑みをさらに増してくれますように。












2013-11-05

アレッポ近郊の村での事件



甥っ子のハムドーが国外へ出たいと画策を始めたのは、もう3ヶ月前だ。ヨーロッパに居る親戚に、如何に国外へ出て、ヨーロッパに向けて動くか、それにはどのくらいお金が要るか、と言った事を尋ね、さらに周辺のアラブ諸国に居る知人や親戚に借金を申し込み、彼なりの結論を出したかのようだった。



しかし、彼は未だにアレッポ近郊の村に居る。9月中頃、彼が漸くトルコに出る算段をしていた頃、トルコ国境の町アザーズで自由シリア軍と「イラクとシャームのイスラーム国」の激しい衝突が始まった。



ハムドーからの通信は途絶えがちになったが、それでもぽつん、ぽつんと送られて来るメッセージには「状況は非常に悪い」、「母親や妹たちの世話におわれている」といったことが書かれており、彼がまだシリアを「出られない」でいることがわかった。



しかし、何が実際起こっているのか、不明だった。



2日前、その一端がわかった。この間に、ハムドーは2回も「イラクとシャームのイスラーム国」に捕まっていたのだ。「なんとか、逃げられた。でもまた捕まる可能性がある」という。



彼の拘束の理由は、義弟と自由シリア軍の一派との関係にあるようだ。義弟はこの騒乱の数年前にアレッポ郊外の田舎に自動車学校を作った。定年後を見越しての計画だった。



のんびりとした田舎で、アレッポから30分くらいで行けるため、主人とよく気分転換と称して遊びに行ったものだ。敷地の中には、バーベキューをするのに恰好の場所もあり、友人たちとバーベキューを楽しんだこともあった。



今年の初め頃、アレッポからハレイターンという村に移り住んでいた義弟たちは、度重なる空爆でさらなる移住を決め、息子夫婦、妹夫婦などと一緒に、自動車学校に移り住む事に決めた。この村は、まだ比較的平穏だったのだ。



義弟はダマスカス高等裁判所の顧問を務めていたいわゆる名士だが、昨年離反を表明した。その後、彼の所に自由シリア軍の旅団のいくつかがコンタクトをとるようになったらしい。そのうちの一つの旅団のメンバーは自動車学校に住むようになったという。



そこに、最近とみに「勢力」を伸ばしている「イラクとシャームのイスラーム国」が目をつけた。小競り合いが始まった。そして次第に衝突は激化し、後者は数日前、数人を戦闘で失ったらしい。そこで、「復讐合戦」を始めた。



ハムドーは親戚だということで付け狙われるようになった。義弟の二組の息子夫婦と子供は、住居である学校から抜け出られずにいる。義弟はこの衝突の始まる前にトルコに短期間ということで出かけている。



これは、アレッポ近郊で起きている様々な事件の一つにしか過ぎない。そして、それはニュースでは一行にも満たない出来事なのかもしれない。



しかし、血のつながりはないとはいえ、「弟」と呼び、「甥」と呼ぶ人たちが「登場」するこの一連の事件は、私にとって外信ニュースでもなければ、テレビドラマでもない。



僅か数年前、私はあの村の静かな秋の夕暮れを楽しんでいた。しかし、今はその夕暮れから遠くにあり、ぽつねんと不条理が忍び寄るのを感じるのみである。




2013-10-19

犠牲祭(イード・アル=アドハー)



 イスラムの犠牲祭の数日前の1010日、ベルギーのSからメッセージが来た。それにはダマスカスの刺繍チームの一員である女性からの、ダマスカスのマーダミーエト・シャーム地区の惨状を訴える文が貼付けてあった。



この地区はもとから頻繁に爆撃に曝されて、町の色々な機能が麻痺している。しかし最近ではそれに加えて、食料事情が極端に悪くなりだした。理由は様々だが、爆撃や封鎖で食料補給路が断たれ、人々はなんとか保存食で食いつないでいるものの、最近は飢えで毎日のように子供が亡くなっているという。



確かに最近、報道でもガリガリに痩せた子供の写真が多く見られるようになり、またある地区では、猫の肉を食べてもよいとするファトワー(イスラム教の見解)が出されたという記事なども読んでいたところだ。



こんな中で、犠牲祭がやって来る。



上記のメッセージには、ヨーロッパに在住する彼女の友人に対して一人あたり10ユーロずつを集める事ができるか、との問いが投げかけられていた。それで約1500ドルほど集まれば、牛が一頭買える。その牛を買って犠牲祭の生け贄とし、肉を同地区になんとか搬入し、分配するという計画だ。



私がシリアで過ごした23年間には考えられなかったことだ。シリアで、子供が「飢え」で死んで行くような事態が起ころうとは。理由はどうであれ、それが現実であり、私の前にはその現場からのメッセージがある。



すぐさま、我々の支援グループのSさんに相談した。彼女は、「あの化学兵器の前後の破滅的な状況の中でさえ、我々と刺繍の仕事を続けたいと言ってくれた人たちですし、実際仕事も継続してくれています。お金は必要な時に使う物ですが、今がまさしくその必要な時だと思います。今なら10万円分送れます。大丈夫です。それでも私たちの活動はなんとか回せますよ。」と言ってくれた。



その答えを受け取るや否や、私はスカイプでスタンバイしてくれていたベルギーのSにその旨を告げた。スカイプの向こうで、Sは驚喜している。今なら犠牲祭に間に合う。



早速、送金の手続きをした。夜中の1時をまわっていた。



その数日後、イスラム世界では犠牲祭が始まった。祭りの祝辞がネット上でもかわされている。しかしそんなお祝い事とはほぼ無縁なように、ホムスの友人は、包囲されているワーアル地区には犠牲獣を地区内に入れる事すら禁止されていると伝えて来た。



ダマスカスの彼女らは、どうなったんだろう?



昨夕(17)、やはり支援の相談で東京の中心部に行った帰り道、駅近くの人ごみ中でFBメッセージの着信音が聞こえた。ベルギーのSからだ。立ち止まってメッセージを開けた。ダマスカスからのお礼のメッセージを転送してくれたものだった。



「今回の件に賛同して下さった方々に神のご加護がありますように。・・・このお心付けのおかげで(現地の)人たちがどんなに幸せに感じたか、計り知れないほどです。本当に有り難うございました。」



東京の雑踏の中で、シリアの想いを運んで来てくれた小さな画面上の文字に、胸が熱くなった。






2013-10-04

刺繍再び



ダマスカスでの化学兵器攻撃の後、消息を断っていたダマスカスの刺繍工房の女性たちの何人かと連絡がとれるようになった、とSから数日前にメッセージが入った。

ダマスカスで刺繍作成グループのコーディネートをしてくれている仲間から、ようやく連絡が来たのだ、と伝えるそのメッセージは、しかし、悲しい内容も含んでいた。

刺繍工房に参加していた2家族が、爆撃の犠牲になったのだ。

詳しいことが聞きたいと、Sに問い合わせた。ダマスカスでは化学兵器事件の前後は電話もネットも通じず、何より、現場に近づく事すら出来ない状況が数週間続いたが、このところ少し動き回れるようになったようなのだ。

現地の我々の刺繍プロジェクトのコーディネーターたちは、通常は人道支援活動をしている。彼らは、極めて難しい状況の中で、刺繍製作をしていた女性たち家々を回り、必死で消息を確認してくれた。

亡くなったのは、夫を失った後、子供を連れてホムスからダマスカスに「疎開」して来ていた2人の女性たちと彼女らの子供たちである。一人は4人、もう一人は5人の子供を連れての「疎開」だった。ダマスカスのバルゼ地区にいたという。子供は、何人かは助かったということだが、それを「幸い」と表現するにはあまりに残酷な現実である。

化学兵器攻撃で亡くなったの?と聞く私に、Sは、「いや、化学兵器のせいじゃないよ、だけど、あの後、『普通』の爆撃がやたら激しくなった。みんな化学兵器のことばかり声高に言うけど、実際あの直後の爆撃で亡くなったり、家を壊されたりした者が激増した。実際はあの(化学兵器)後がさらに地獄だったんだ。」と憤りを隠さない。

せめて遺作の刺繍はないものだろうか、という私の「淡い」期待は、Sの言葉で遮られた。「彼女らの家は、めちゃめちゃに壊れたんだ。刺繍もなにもありゃしない」

「刺繍のプロジェクトが始まったとき、彼女らはすごく喜んでいた。少なくとも、手を動かすことで、ちょっとでもお金がはいる。それでなんとか食べて行けるようになるかもしれないって、希望を持ち始めた矢先じゃないか。そんなささやかな望みを、なんでぶち壊すんだ。」

Sの声が、少し途切れた。会話を続ける言葉が見つからなかった。

「でも、先生」しばらく間をおいて、Sが口を開いた。

「他の女性たちで消息の分かったものも結構いる。しかも、なんと刺繍も一部、集めてくれている。100枚以上できてたうちの26枚だけだけどね。特注の大型の壁掛けもその中に入ってる。もうベイルートに運んでるはずだ。彼女らも、まだ、あきらめてないよ。だから、また注文してくれるでしょ?」

そう。刺繍は残っている。彼女らは、続けようとしてくれている。我々の武器は針と糸。

ベイルートからの便が無事に着きますように。













2013-09-15

逡巡



 「僕の帰りが遅いと、おふくろは僕が死んだと思うらしい。家に入ったら泣いているおふくろがいる。そして、『死んだかと思った』と繰り返すんだ。」



甥っ子のハムドゥーは、昨夜のチャットで、そんな事を言って来た。



彼とその家族が、自分たちの村、ビレーラームーン村を離れたのは、もう随分前になる。村には、一時人が戻りかけたようだったが、結局、各勢力の狭間のような位置にあるため、住める状態にはなり得なかった。戦闘は続いている。化学兵器騒動とは関係なく、戦闘や空爆はまた激しさを増しているらしい。



彼は今でも村にある自宅に残っているモノをとりに行ったり、村の基地にいる友人のところに行ったりを繰り返しているが、近頃、危険は度合いを増している。ネットも自由シリア軍の拠点に行った時しか使えないようだ。



「ほんとなんだ。ほんと危険なんだ。危険なんだ。一日のうち、半分以上は危険な目に会っている」今までは、「まあ、大丈夫だよ」と言い続けて来たハムドゥーだったが、「今日は正直に言う」と伝えて来た。



「だから、・・・・ぼくもシリアを出ようと真剣に考えはじめた。ヨーロッパに出たMSとも話した。彼と同じような形でシリアを出る計画をしている。彼もいるし、死んだマフムードおじさんの息子Hもいる」



MSと同じ形。つまり、密出入国である。MSHもヨーロッパに出はしたが、一人は政治亡命を申請中、もう一人は8ヶ月経って、ようやく居住証が出たとは言っていたが、両人ともキャンプ暮らしである。国も違う。



MSの出国時の話は、私も直接話を聞いているから知っている。地獄の逃避行だ。しかも、それなりの大金がいる。密入国差配人に渡す金だ。失敗したからといって帰って来る金ではない。しかも金銭を持っているが故に危険な目に会う可能性が高い。

MSは言っていた。うまく行かずに連れ戻されるもの、途中の町で身動きがとれず、身元を証明するものを持たないまま外国に留まらざるを得ないケースも多い。後者のなかは、最終的に所持金がなくなり、麻薬取り引きなどの道に入らざるを得なくなる輩も多いと聞く。



ハムドゥーは続ける。「僕の家では僕が唯一の息子だから、おふくろは反対するかと思った。知ってるだろ、おふくろはどんな性格かって。だけど、この前おふくろは言ったんだ。『何処へでも好きな所へ行けばいい。ここにいないほうがいい。』ってね。それでもうすでに何人かに借金を申し込んだりしているんだ。」



ハムドゥーは、訝る私のメッセージを無視するかのように、何ものかに憑かれたように彼の逃亡計画を書き送り続ける。しかし、行間にまだ100パーセント決めることが出来ずにいることが伺える。



そして、気をつけてとしか言えない私に、「なんとかする」との返事し、その躊躇を打ち消すように、ネット上から消えてしまった。



昨夜は、ちょうど折も折、私も上記の甥っ子Hと話をしたばかりだった。彼は「居住証をもらったあとはパスポートの申請も出来る。そうなったら、いざとなれば、国外への移動も可能なんだ。」と言っていた。



「・・・但し、シリアへの帰国以外はね」と。
















2013-09-08

軍事介入



アメリカの軍事介入を巡って、世界が急に喧しくなって来た。



8月21日の化学兵器の攻撃のあと、ネット上のビデオは、化学兵器で、生きているようなあどけない表情をして死んで行った子供たちの遺体を次々と映しだした。



子供たちだけではない。あそこでまともにガスを食らった人は、どんな屈強な若者でも死んでしまったのだ。



なのに、世界はまだ、誰が化学兵器を使ったか、誰が死んだか、誰がどう苦しんだか、誰が嘘をついているのかだけを取り沙汰する。



でも、それは別に驚く事でも何でもない。今までも同じだったのだ。朝食の用意が出来ていた普通の家庭の朝が、いきなりの空襲で廃墟のそれになっても、だれも話題にしない。



そして、一連の戦闘のなかで、猟奇的な出来事だけが取り上げられ、それが全てを物語るかのように解釈される。





「化学兵器」の事件のあと、アレッポで、イドリブで、ダマスカス近郊で空爆はさらに激化している。つい数日前トルコのレイハンルにいる友人の親戚がイドリブから出て来て、アリーハとサラーケブ(いずれもイドリブ県の町)で激しい戦闘になっていると伝えていた。



アレッポの友人は、もう10日ほどネット上に現れない。ダマスカスの刺繍工房の指揮をとってくれていた女性も、「女性たちの消息がわからない」というメッセージを最後に、彼女自体の消息が分からなくなっている。



ニュースは、アメリカで、そしてヨーロッパの街頭で、軍事介入の反対を叫ぶ人たちを映しだす。



それを見ながら、いつか夫が教えてくれたエブラ文書(紀元前3千年紀)の一節を思い出した。エブラ王のもとに使者が来た。その使者は、ほど遠からぬ国が、戦闘準備をしていることを王に伝えた。使者は王に言う。早くこちらも準備をしなくてはいけません。「アルヘシュ、アルヘシュ(エブラ語で、『早く、早く』)」と使者は呼びかける。夫は喉音をきかせて、この「アルヘシュ」を繰り返した。



あの時。夫には今が見えていたのだろうか。








2013-08-25

化学兵器



821日にダマスカスで化学兵器が使用されたらしい。


ネット上には、おびただしい数の犠牲者、特に子供たちの犠牲者の写真やビデオが一斉にアップされた。



あるビデオは、なんとか目を開けようとする2歳くらいの男の子に、父親と思われる人が必死で呼びかける様子を写し出していた。しかし、この男の子は、その呼びかけもむなしく間もなくぐったりとなり、息を引き取った。

https://www.youtube.com/watch?v=Kl3TZ1VKFS4&feature=player_embedded
 

犠牲者の正確な数はわからないが、1300人とも1600人とも伝えられる。早朝の数時間で、これだけの人々がサリンガスと思われる化学兵器によって亡くなった。



ダマスカスには、私たちの支援活動「イブラ・ワ・ハイト(針と糸)」に賛同して刺繍を製作してくれている女性たちがいる。彼女らは、すべてが男手を失った家庭の女性で、細腕で子供たちを育てようとしている。



気丈な彼女たちは、最初にイブラ・ワ・ハイトの活動への参加を決めたときも、「支援活動を通して売ってもらう製品だからと言って、変なものは作れない。誰にも笑われないような素敵な刺繍を作るわ。」と頼もしいメッセージを送ってくれていた。



実際、最初の便で私たちの手元に届いた作品は、その気概を十分に感じさせるものだった。そこで今回私たちは、彼女らに大物の壁掛けに挑んでもらう事にした。8月初頭に、そのうちの一つが出来たと、写真が送られて来た。期待に反しない、素晴らしい出来だった。



彼女らの今回の製品は、小型のものも含め、予定では20日前後に揃い、ダマスカスからの第二便として送り出されるはずだった。



そこに今回の事件が起こったのだ。ニュースを聞いた時は、脚が震えた。シリア国外から仲介をやってくれている友人Sに、彼女らの工房は、現場とどのくらい離れているのか、と聞いた。彼は、「ひょっとしたら、かなり近いかもしれない」と言う。



今日(23日)入っていたSからのメッセージは、未だに「通信機能のみならず全ての動きが麻痺しているよう」で、「何も情報がない」と伝えて来ている。



今はただ、彼女らの、そして彼女らの子供たちの無事を伝えるニュースを待つしかない。






















2013-08-09

イード・アル=フィトル(ラマダン明けの祭り)


再び、ヨーロッパに逃れたMSの話。



MSは無事ヨーロッパのとある国に着いた。今は政治亡命の申請をしているという。各国からの亡命志望者や、難民申請をする人たちを収容する施設にいるらしい。ネットがようやく使えるようになり、人恋しいようで、このところよくスカイプ通話を仕掛けて来てくれる。



離反以前、シリア国軍では大佐だった。革命勃発以来反政府の拠点の一つとなっているマアッラト・ヌアマーンの出身。マアッラト・ヌアマーンの土地柄は質実剛健というところか。シリアで、夫の親族が集まった時などに見かけはしたが、親しく話したことはなかった。夫は「遺跡の話なんかすると、他のヤツより結構興味を持って聞いてくれるんだ」と喜んでいた。しかし、私としては、彼に対してちょっと「強面な人物」という印象をもっていた。



革命以来、FBで繫がることになり、トルコの、離反士官たちが住むキャンプから、時折自由シリア軍関係の情報を伝えてくれた。そして、その都度、軍人らしく、極めて率直な意見をよく述べてくれた。



ある時、キャンプの内部の様子をビデオで見せてくれたことがある。テント生活を初めてから数ヶ月が経っていたが、テントは極めて殺風景あった。彼らの隣人に子供が生まれたと、隣人のテント内も見せてくれたが、赤ちゃんをくるんでいた毛布は、軍人のそれのような粗末なものであったことを今でも思い出す。



彼の妻G、つまり私の義理の姪は、常に彼と一緒だった。トルコのキャンプでも、彼が再びシリアに入り自由シリア軍として銃を再びとったときも、彼と行動を共にしていた。最初MSは、妻は残してシリア入りするよ、と言っていたが、Gは最終的に彼のもとにやって来たらしい。



彼らの間に子供は出来なかったのだが、それが故にかえって強い絆で結ばれているようだった。



しかし、今回、彼は妻を残してこざるを得なかった。密出入国という手段をとらざるを得なかった逃避行。それに伴う危険を、彼女に負わせるには行かなかった。落ち着いたら、呼び寄せるのだと言う。



「妻のGが恋しくてしょうがないよ。」



昨日の通話で、彼が、ぽつんとつぶやいた。



「革命はまだ終わっていない。甘い事を言うべきではない。だけど、今は妻に会いたい。」



強面だと思っていた彼が、シリアでの最前線に加わっていた彼が、「奴隷船」のような乗り物でヨーロッパに渡ることを躊躇しなかった彼が、今、そうつぶやく。



そして、ヨーロッパの片隅で、一人ぼっちのイード・アル=フィトル(ラマダン明けの祭り)を過ごしている。








2013-07-27

方向転換




自由シリア軍でトルコ国境に近いイドリブのある町にいたMSがシリアを離れるという決断を下したのは、もう一ヶ月ほど前になる。



彼の妻、つまり私の亡夫の姪と、ある日スカイプがつながり、単独で姑家族のいるトルコのある町に逃れたという事が分かった。しかし、MSは彼女を自分の親元に預けたあと、海路密出国をし、ヨーロッパで政治亡命を申請すると言って出て行ったきり、何の連絡もないとのことだった。



2週間ばかり前、MSからスカイプにメッセージがはいっていた。「今、イタリアにいる」と。これでとりあえず、「無事」に少なくとも国外に出たのだということが分かった。



元シリア国軍の将校で、離反したMSは、今年の春、離反後一時居住していたトルコから再びシリアに入った。自由シリアを人生の究極の目的にした者が、トルコで何をしているのだ、シリアに再び入って、その目的を一にする者たちと合流しよう、とトルコ国境近いイドリブのある地域に入った。死ぬ気のシリア入りだった。



その頃彼は新参兵の訓練を受け持っていたようだ。一度その様子を伝えるビデオを送ってくれた。離反してトルコに居たときには、「自由シリア」への夢はあっても実際はロジ・広報関係をやっているだけで、不完全燃焼だ、再びシリアに戻って、戦線に出たい、そのような忸怩たる思いを持っていたようで、シリアに再び戻った時に来たメッセージには、生き生きとして活動している様子が書かれていた。



しかし、その後、彼の考えていた形で事は進まなくなって行ったようで、自由シリア軍を名乗る、あるいはそれに協力すると見せかけていた集団が、徐徐に彼のような誠実な者たちの領域を浸食し始めたようだ。



彼は何度か、そういった集団からの嫌がらせ、威嚇、彼らの不正な行動などを伝えて来ていたが、最終的に「命を狙われている」とまで告げるようになった。そして、「今は選択の余地がない。まずはヨーロッパに出る」という結論に達したようだ。



彼は離反将校であり、パスポートなど持っていない。どこへ行くにも密入国という形をとらざるを得ない。「彼はその為にいろいろなアレンジをしていたわ」と姪っ子は言っていた。



イタリアに着いたというメッセージを読んでいたら、彼から音声コールが来た。トルコを海路で出てから壮絶な逃避行のあと、一日前にイタリアにいる知り合いのもとにたどり着いた、という。一週間以上、ろくなものも食べていない、家畜のようにトラックや船の貨物室に身を隠していたという。



しかし、彼の最終目的地はイタリアではない。さらに若干疲れをとってから別の国に向かうとのことだった。



革命は無頼の輩たちに奪われてしまったのか、という私の問いに、彼は答える。「いや、まだだ。今のままだったら、誰のために、何の為に戦いを始めたか、という本質が闇に葬られてしまう。」



「これではいけないと今回出て来たが、死ぬのが怖くて出て来たんじゃない。僕だって、生き恥をさらすというのはどういうことか分かっている。僕は軍人だ。だから戦う。しかし、皆の為に戦っていたはずの戦いが、全く妙な、貶められた形になっている。戦いの方向を変えなければいけない。そのためにシリアを出た。本当に苦渋の決断だった。だけど、未だあきらめてはいない。」



「数日後にここを出る予定だ。目的の国に着いたらまた連絡するよ、今からイフタール(ラマダン中の一日の最初の食事)なんだ。」彼は極めて敬虔なムスリムだが、急進的でもなく、狂信的でもない。軍人だが、極めてリベラルな考えを持つ。シリア問題を「色分け」すると、彼のような色がかき消されてしまう。

私は、彼のラマダン月とこれからの旅路が安かれと祈るのみである。




























2013-07-09

包囲




アレッポとイドリブに住む教え子たちが、自分たちの住む地区での包囲のニュースを伝えて来た。



彼らは、砲撃にさらされることを恐れて、数ヶ月前から政府軍制圧下の地区に移り住んでいる。政府軍制圧地域だと、検問が道の至る所にあるものの、少なくとも空爆や砲撃は来ない。



これらの地域で、彼らは親戚の家や知人の家を間借りし、また国外などに移住して空き家になっている場合は、家の管理も含めてそこに住んだりしている。



しかし、この数週間、これらの地区は政府軍制圧下ということで、自由シリア軍に包囲を受け始めた。中に住んでいる人々は様々で、勿論反体制派の人、自由シリア軍シンパの人も多い。しかし、そんな事とは関係なく、『作戦』として包囲作戦がとられている。



包囲。軍と軍との戦いの中では、あり得るオプションなのかも知れない。だがこの包囲の為に、一般の人々は身動きがとれず、また食料品、医療品などの必需品の供給路も閉鎖されてしまっている。イドリブの教え子は、まさしく「中世」の攻城戦だ、と形容する。



それらの包囲をかいくぐって闇で売られている野菜やパンは、わずか5km離れた非包囲地区の10倍にもなっているらしい。例をあげればトマトが1kg400ポンドだとか。騒乱前の価格、25ポンドとは全く比べ物にならない。しかも、供給量は雀の涙ほどもない。猛威をふるうインフレに加えて、包囲地区ではモノの価格は気違い沙汰のようである。



そんなアレッポの包囲地区に住む教え子のRを先日ようやくオンラインで捕まえたとき、彼女は開口一番、冗談を言った。「先生、アレッポで何が起こってるか教えて。きっと日本にいる先生たちの方が、私たちよりももっと状況が分かってると思うわ。だって、こっちじゃ停電でテレビも見られないし、ネットも使えないし。」



日々の食事に関しては、野菜は高過ぎて買えず、日常はとりあえず保存食で食いつないでいるという。「だけど、文字通り、本当に家に何もない人たちがいる。本当に切羽詰まっている。だから、今は物乞いをする人がものすごく多くなりました。昨日もバスの中で、横に乗っていた女の人が物乞いをしていたわ。」



彼女は続けた。「そして、悲しい話だけれど、盗みも増えているの。こんな事は、前はありえなかった。先生も知ってるでしょ?」



ホムスで支援活動を続ける娘の友人Sちゃんからも昨夜、メッセージが来た。彼女の所属する団体には、日本の人道支援団体NICCOから、今回支援金を送ってもらっている。彼女からのメッセージには、「ラマダン月に入るので、送ってもらったお金で基本的な保存食料以外に、お肉を少し買ってあげてもいいでしょうか?」とあった。



彼らは生活の中に、ほとんど選択の余地をなくしている。そして、生活は日一日と締め付けられる。そのなかで、物理的な包囲以上のものが人々の心にのしかかるのだ。
 

騒乱が起こってから三度目のシリアのラマダンは、人々を何重にも包囲しながら始まろうとしている。






2013-06-19

シリア・ポンド



この数日間のシリア人の間での最大の懸念事項は、G8でも、アメリカの武器供与でも、ヘズボラの参戦でもない。



シリアポンドの異常な値下がりである。



シリアポンドは、騒乱の始まり頃、すなわち2011年の春の段階で、1ドル=4647ポンドだった。昨年の2月、シリアに帰ったとき、1ドルは6667ポンドと格段に値下がりしていたため、びっくりしたが、これは単なる前奏曲に過ぎなかった。



今年の年明けごろ、1ドルが100ポンドになったと聞いてたまげたのを覚えているが、それ以来、さらに下がり続けていた。先月トルコに言った際に確かめた時は150ポンド前後、それが、つい一週間ほどまえ、160ポンドになった。



そして昨日(6月17日)、ついに1ドルが200ポンドになったといい、一部の噂では週末までには300ポンドにまで下がるだろうとの予測も出ているという。



それに伴う生活必需品の値上がり。特に食料の値段はじりじり値上がりしており、なんとか上げ止まっていた野菜などまでが、今また急騰しつつある。知らせてもらった値段を見てみると、改めて全ての食料で2年前の4−5倍で、さらに上がる気配をみせていると言う。



1ドルが200ポンドになったというシリア人の友人のFBへの投稿を読んで、これから予測通りに、加速的にシリア・ポンドの価値が下落したらどうなるのだろう、と思っていた矢先、夜中に娘の友人でホムスに住むSからメッセージが飛び込んで来た。



「緊急に支援が出来ませんか。今日のシリアポンドの急落だけではなく、週末までにさらに急落するという噂もあり、ラマダン月用の食料を、私たちの支援している貧しい人たちに今買っておかなければ、すぐに予定の半分の支給分すら確保があやしくなっています。お願いします。」



そうなのだ、このレートの下落は、一番貧しい人たちの生活をまさしく奪って行くのだ。



今日(6月18日)の昼すぎには早くも1ドル=225ポンドになったと、ラタキアの友人がメッセージを送って来た。あたかも足下の砂をすくわれているようではないか。



戦闘のかげで、さらに不気味に、何かが崩れつつある。


2013-06-11

ミンバル(説教壇)



Dは、ひょろりと背の高い、もの静かな学生だった。童顔で色白、考古学科にはいったものの、野外作業には僕は向かない、と自分で言っていた。



ベルギーの考古学発掘隊にシリア人学生の参加が可能になった時、クラスから何人かの学生を募った。Dは、興味はあるけど、炎天下の発掘ではきっと皆について行けないからと、早々に辞退した。



そんな「ひ弱な」彼だったが、考古学実習の授業で遺物の実測図を描せると、抜群のセンスを持っていた。他の学生が、消しゴムで消しまくって方眼紙をくしゃくしゃにしているのを横目に、彼の実測図は、線もシャープで、少しの助言だけで、すぐに間違いも直った。発掘は野外作業だけではない。彼はそれなりに使い物になるんじゃないの、と夫と話し合ったものだった。



それから数年後のある日、アレッポ博物館で彼に再会した。彼は、卒業後、数回外国発掘隊で実測図を描く仕事をしたことを、はにかみながら話してくれた。「勿論野外の作業はしないんだけど」と言う彼の女の子のような微笑みは、学生の時のままだった。



その後、彼との連絡はずっと途絶えていたが、先日、彼が、アレッポのウマイヤド・モスクに残されていたミンバル(説教壇)を、安全な場所に移動するという作業を指揮したという話を聞いた。確かに、シリアの考古遺跡保存を訴えるFBのページで、数人の人がミンバルを運ぼうとしているビデオを見た。しかし、あの作業は彼が仕組んだものだったわけなのか。モスクはミナレットが破壊された後も危険な状況にさらされていると聞いている。あのひ弱なDがそんな大胆なことを?



確かめてみようと、久しぶりに彼のFBのアカウントにメッセージを残しておいた。すると、数日後に返事があり、さらにチャットにも応じてくれた。彼の家はアレッポ旧市街の近くで、未だにそこに住んでいる数人の有志で作ったグループを中心に、旧市街の歴史的建造物などに残る古文書や文物の一部を安全な場所に保管するなど、実際的な活動をしている、という。



誰がリーダーなの?と聞くと「僕ですよ」という返事が帰って来た。「記録を残すのに、機材がないから携帯のカメラで写真を撮るだけだけど、一つ一つちゃんと記録してます。何でも記録とれって、そう教えてくれたでしょ?」



「でも、実はすごく怖いんです。だって、僕は政府の職員でもなんでもない。だから、これも反政府運動と考えられるかもしれないし、捕まってしまうかも知れない。だけど、今、大事な文化財が日々、盗まれたり、壊されたりしている。スナイパーがいたり、砲撃があったりで、地元の者じゃないと、だれもこの地区にわざわざ来ることが出来ない。ここに住んでる僕たちが守るしかないじゃないですか。僕は考古学を勉強したんだし。僕がこのグループの『学術面』のリーダー、他のメンバーはマネージメントを受け持って、ちゃんと組織を作ってやってるんですよ。」



彼の色白の優しい顔が浮かんだ。細い腕をした、あの気弱な彼が今、文字通りシリアの歴史を守っている。








2013-05-26

アトメ(シリア国内避難民キャンプ)



 今回のトルコ滞在中に、シリア国内の避難民キャンプを訪れる機会を得た。予期しなかった訪問である。



トルコのレイハンル(リーハニーヤ)の町はずれから歩いて国境を越え、シリア側で待ち受けてくれていた車でアトメ・キャンプに向かった。アトメ・キャンプは、シリア・トルコ国境添いにある、「キャンプの体裁をとる」7つのキャンプの内の一つで、その中では最も大規模なものである。ちなみにこの地域はいわゆる反政府側の「解放区」となっている。



車が「シリア」の中を走る。オリーブの畑。赤い土。刈入れが半分ほど済んだ麦畑。ひなびたモスク。1年以上離れていた感覚は不思議になかった。見慣れた風景が、自然に私の前に流れていた。



案内してくれる医師をアトメの村でピックアップするために、一旦車が止まった。「車を戸口に止めないでよ」と、家の中からおかみさんが出て来たが、私たちを見つけた途端に笑顔になり、「アハラン・ワ・サハラン(ようこそ)」と言って家の中に入って行った。しばらくして、彼女は水と、ビワ、キュウリ、さらにはクッキーまで持って出て来てくれた。キュウリの青臭い香りが、とてつもなく懐かしい。



彼女に村の状況はどう?と聞くと、アトメ村自体は近頃落ち着いているが、周辺の村では、まだ空爆もあること、彼女の親戚も沢山亡くなったという事を淡々と語ってくれた。





アトメ・キャンプは、周壁や門などがいっさいない。アトメの村をすぎて2〜3分進むと、小高い丘の上にテントが密集しているのが見えた。あそこに行き着くにはまだもう少しかかるかな、と思ったあたりで、道の両側にテントがぽつぽつ見え始めた。おや、というような私の顔を見て、案内をしてくれた医師が「もうキャンプの中に入っていますよ。」と伝えてくれた。



ヨルダンのザアタリ・キャンプの厳重な門構えを知っていたので、この唐突なキャンプの始まりは、意外であった。



UNHCRのテントもあるが、ほとんどがもっと小型の無地のテントで、中にはビニールシートを木に簡単に結わえただけのようなものもある。さらに行くと、キャンプ内のメインストリートに出た。両側にテントがあるが、その並び方は、ザアタリのように整然としたものではなく、丘に向かって不規則に密集している。テント間には、地面を掘っただけの浅い排水溝が無造作に這っている。





医師の案内で、このキャンプ唯一の医療診療所に行った。粗末なプレハブの建物で、数人の子供が診察や治療を受けていた。この中の、間口一間半ほどのスペースが薬局だが、背面にしつらえられた棚にまばらに並ぶ薬品がこのキャンプにいる35000人(5月22日現在の概数)のための薬の全てであるという。



他のキャンプと同様半数以上が子どもで、キャンプ内の衛生状態が悪いため下痢症状を訴える子どもが多く、皮膚病(リーシュマニア)も蔓延している。また婦人では、クラミジア感染症なども目立つ病気のようである。「厳しい冬をやっと越えたんですが、今度は夏が来る。この衛生状態のなかで、夏はどうなるのか。」案内の医師は途方にくれたように言う



重症者や、ひどいケガなどの場合は、以前はトルコに運ばれていたが、今はそれが難しく、アトメの村にある病院にとりあえず収容されるらしい。



「キャンプの運営資金は主に、在外のシリア人有志や、内外の慈善団体の寄付に頼っています。ヨーロッパからの支援は全くありません。国際機関とやらの援助は極めて限られている。」と、医師は吐き捨てるように言った。



キャンプに入る前に会った別の医師は、さらに辛辣に語ってくれた。「この地域は解放区だが、国際的に宙ぶらりんの状態と考えられている。その故なのか、国際社会は援助を本気で考えていない。国際機関は『人道支援』を謳っているけど、『人道支援』はどんな状況でもあるべきじゃないのか?我々にしてみたら彼らは、利害関係だけで動いているように見える。もっと率直に言えば、この状況を彼らはビジネスのネタにしているだけだ。医療に関して言えば、唯一『国境なき医師団』が実質的に、しかも無私の姿勢でやってくれている」



キャンプのとある一角では、テントとテントの間の隙間の地面に直にマットレスをしいて男の子が寝ていた。「この子は下痢が続いていて、ずっと体がだるいんだ。」と寄って来た子どもが教えてくれた。すぐ横には、木の枝にロープを巻き付けただけのブランコがあり、妹を遊ばせてやっている子どもがいる。



ブランコが揺れるたびに、木の葉の間から見える青い空が揺れる。子どもの笑い声は屈託ないように聞こえる。しかし彼らの空は今、この切り取られたような空間にしかない。


*アトメは Qatma قطمة ですが、方言の音を当てています。









2013-05-19

針と糸




亡くなった夫は、たまに熱に浮かされたように何かに夢中になる事があった。シリア刺繍の収集もその一つである。あるとき、ラッカという町に住む友人Tが、素朴な刺繍の施されたクッションカバーの数々を夫に見せてくれた。この友人がユーフラテス川沿いの村々から集めたもので、ここ50年来の作品だと言う事だった。



刺繍は、一つ一つのモチーフが奇抜であったり、とりとめがなかったりで、重厚な「伝統工芸」のイメージからはほど遠い。しかも、粗末な木綿地に、有り合わせの糸で刺し込まれているだけである。しかし、そのユーモラスで、どこか暖かいその文様は、物々しい「伝統工芸」としてではなく、シリアの片田舎のあっけらかんとしたデザイン感覚を素直に表現している。



夫は、それからTの所に行く度に、しつこいほど収集を薦め、時には彼の集めたものを借り受けてきた。しまいに、Tはそんなに気に行ったのなら、いくらでももって行けばいいと、コレクションをかなり譲ってくれた。



夫は大喜びで、アレッポ郊外のジャバル・ハス(ハス山)という地区にある村の農家にそれらを飾った。この農家は、コッバというドーム状の屋根をもつ、日乾し煉瓦で出来たシリア北西部特有のつくりで、半壊していたのを夫が「復元」し、借り受けていたものだ。



刺繍コレクションをここに「展示」してから、夫は友人や客人が来る度にこの家に連れて行き、忘れられつつある「シリアの民間の伝統文化」を熱っぽく語るのだった。



「民間の伝統文化」というものがあるとすれば、それは薄暗い博物館の奥に鎮座するものではなく、自分たちがこうやって手にとって見て、製作を続けていくことができるはずのものなんだ。そんなことが夫は言いたかったのだろう。



そんなこんなを刺繍で飾られたコッバに座って友人と語り合ったのは、まだわずか3年前のことだ。なのに今は、あの刺繍のコレクションがどうなっているのかさえ分からない。暑い時期にはコッバに開けられた小さな窓から涼しい風が吹き込んできて、無造作に壁に止められていた刺繍の布を揺らしていたっけ。



そんな光景が眼間に蘇る度、あの刺繍のことがずっと気がかりだった。



そんな折、シリア刺繍に興味をもってくれる日本人の女性YSさんに出会った。彼女は積極的にシリア刺繍の活用のために動き回り、ついに彼女のおかげで、シリア人女性に刺繍を通じて収入の道を開く活動グループを立ち上げることが出来た。また教え子のSのシリア現地でのネットワークを使い、写真に残っていた夫の刺繍コレクションからモチーフを選び、試作品も作る運びともなった。



「グループの名前は『イブラ・ワ・ハイト』(アラビア語で、「針と糸」という意味)って、どうですか。家をなくしても、難しい道具がなくても、針と糸があれば、何かができる、そんな希望を託して」とYSさんは提案してくれた。私たちの想いにぴったりのこの素朴なネーミングは、シリア人の友人たちからも、至極受けがいい。



ロシアは新たな武器をシリア政府軍に供与し、アメリカは反体制派への武器援助をほのめかす。戦闘は、仮面舞踏会のように、相手が何者かも分からぬまま続けさせられている。



しかし一方で、人々の生活への渇望を誰も止められはしない。



「針と糸」をそのための武器にしたい。手仕事の実際をシリア人の友人と調整するため、今私はトルコに向かっている。



*イブラ・ワ・ハイトに関しては
https://www.facebook.com/Iburawahaito