2012-12-23

シェルターに作られる学校



現在、アレッポのほとんどの小・中学校は機能していないという。この危険な治安状況の中、親は子供を学校に送る事ができず、または授業ができる状況ではないことの他、学校自体が破壊されてしまっている場合もある。

しかし、このような状況の中で、学校を作ろうと動いているグループもある。

カッラーセ、あるいはブスターン・アル=カスルはアレッポでは貧しい層の人々が住む地区であるが、紛争以降、さらに状況は厳しくなっている。度重なる戦闘は、シリア中で家をなくし、家族をなくし、収入のすべを失った人々を生んでいるが、この地区のような極めて貧しい地区の人々は、国外に出るにも頼るべきものがない。また多くの人が、死ぬのであれば自分の住んでいた土地で死にたい、と地区から出ない決意をしている。

学校作りを始めたグループは、この地区を紛争当初から支援し続けている若者たちで、緊急支援物資を国外居住のシリア人有志から集め、ここに残った人々を支えて来ているが、この数ヶ月のあいだこのような状況であっても子供の教育をないがしろにしてはならない、と学校をつくりはじめたのである。

しかし、「地上」に作ると、攻撃にさらされる可能性があるということで、地下のいわゆるシェルターに教室を用意しているという。教師は、もと一般学校の教師の内の有志を募り、教材、テキストを今収集中のようだ。生徒は180人ほどで、新年の開校を目指している。

このグループの一員の若者Bは言う。「僕たちの支援グループの何人かは、支援活動の最中に狙撃をされて亡くなった。そのうちの一人、Mはこの国の将来を考えるたびに、学校機能が麻痺している事を非常に憂いていた。こんな状態だからこそ、子供たちはちゃんと教育されなければ、と僕たちは彼の意志を引き継ぐことにしたんだ。」

「何もないし、先生たちだって、ある程度の給料を払わないと、彼らの生活も危うい。だけど、やらないといけない。そう信じている。」とBは続ける。

シリア人の挑戦は、戦闘だけではない。彼らはこのどん底で将来に挑戦し実践している。

2012-12-12

生きるための算段


「エジプト航空がダマスカス・カイロ便をストップした。アレッポ・カイロ便も16日には止まる。」

アレッポの旅行代理店のJが、2日前に久々にスカイプ通話をかけてきてくれた。しかし、彼のニュースは、シリアが空路でもほぼ封鎖状態になってしまったことを示すものだった。彼はその時ダマスカスのエジプト航空のオフィス二いるという事であったが、いろいろな問い合わせがあるものと見えて、大声で話す周囲の人たちの声に、スカイプ会話は何回も中断された。

ダマスカス・カイロ便のストップは、緊張の度合いが極端に激しくなったこの一週間の状況を受けてのことで、16日のアレッポ・カイロ便が止まれば、外国の航空会社は全てストップした事になる。

じゃあ、空路で国外に出るにはどうすればいいの、と聞くと、シリア航空がひとりベイルートまで飛んでいる。空路で国外に出るには、まずはベイルートへ行き、そこから乗り継ぐことになる、と答えてくれた。

数ヶ月前、アレッポが極端に危険になって来た頃、エジプト航空のシリア代理店であるJは、「僕が進言すれば、今でもアレッポ・カイロ便を停止できる。だけど、今は国外に出たい人がいっぱいいる。僕がやめたらこの人たちが外に出られなくなる。」と、砲撃も頻繁になったアレッポの中心街アズィズィーエのオフィスを閉めなかった。

今回は、エジプト航空関係に関しては中断せざるを得ないが、彼は自分のビジネスを潰すまいと動いている。去る9月には、フランクフルトの旅行代理店関係の見本市にいる、と意外にもドイツから連絡をくれた事がある。その時は、この状況では今に我々のビジネスは壊滅だ。こんな状態だからこそ、次のステップを考えてこんな見本市のような所に来ているんだ、と言っていた。

今回も、ダマスカスでの「残務処理」を終えたら、ベイルートに行き、そこでもいろいろ画策して数日後にアレッポにも戻るとのこと。彼は決してアレッポを捨てない。次の段階が来る事を見越して、動いている。僕たちは最近、「・・を願う」、とばかりしか言わなくなった、と苦笑いをしながら、願いをいつでも現実の行動に変えられる日がくる事を否定している訳ではないことが、伝わってくる。

多くの人が家を追われ、国を出て行くか、否か、あるいは生きるか死ぬかの状況にまで追いつめられている。しかし、にも拘らず、全く予測のつかない将来を視野に入れて、人々は生活する。パンや、燃料が不足したり、なかったり、の日常だけが彼らの関心事ではないのだ。

彼だけではない。甥っ子のハムドゥーも、もう戦闘員しかいなくなった村の家に戻り、死の危険を冒して大学院修了証書を持ち出して来ていた。Aも、論文を書いて、「修士」の口頭試問の手続きを何とか進めようとしている。大学の講師となった元学生の幾人かも、後輩たちのためもあるけど、キャリアになるから、と危険な中を大学の講義に出かけて行く。

「今は、死ぬのは簡単だ、でも生き延びるかも知れないじゃないか。そうなった時のために、死にそうになりながら、書類をとってくるんだ。」そんなものどうでもいい、命を賭けてまでとりに行くものじゃないよ、という私の「忠告」は彼らの現実の前では、「現実的」ではない。

2012-11-30

義弟マフムードの死


義弟のマフムードが死んだ。

スカイプで別の友人と話していたときだった。久しぶりにトルコにいる義理の姪の主人からメッセージが入った。友人とたわいない話を続けながら,メッセージを開いたとたん、目に飛び込んで来たのは、

マフムードが殉教しました。哀悼の念をあなたに。

という、わずか一行の簡単なメッセージだった。
のどの奥から、熱い自分でも抑えられない呻きがわき上がった。苦いものがこみ上げてくるような気がした。

しかし、なにかしら、予想していたことでもあったのだ。彼がトルコからシリアに再び入り、アレッポ郊外で結構大きな部隊を率いていることを甥っ子のハムドゥーから聞いたとき、彼は長くはないと思った。その胸騒ぎが、的中した。

何が彼を戦線に駆り立てたのか。彼は離反者である。死刑宣告は前から出ており、シリアに入ったら、即刻死刑だぜ、と笑い飛ばしていた。アレッポに入る以前、彼は政治亡命を考えているとも言っていた。家族のことを考えてのことであろう。だから彼のアレッポ入りを聞いたときは、彼の行動にはそれなりの意味があると思った。

彼の死をどういう風に受け止めていいのか、わからない。平和な私たちのアジェンダが一つずつ崩れている。それだけは確かである。
そして、アジェンダの乱れはわたしだけのものではない。シリア全てがこの不確定さの中にあることに、いまさらながら気づいた私は、なんと鈍感であることか。

ハムドゥーともいつぞや話した時、彼は自暴自棄になっていたことがあった。しかし、その後死ぬのは後回しにしたよ、とアレッポ郊外で被害者の救援活動をし始めた。もちろん、彼のやっていることに命の保証はない。

同じく、今日パリに避難しているSさんの夫、Nさんは、こんな中で、アレッポに戻って行ったらしい。どうして?何かどうしようもない理由でもあったの?と 聞いたが、Sさんの答えは、「何もないのよ。だけど、彼はアレッポが恋しくなったの」というものだった。

今シリアでは、誰もがあらがうことのできない求心力によって、人が戦いの場に吸い込まれて行くようだ。

2012-11-19

笑みの消えた顔


今月のはじめにヨルダンのシリア避難者キャンプ(ザアタリ・キャンプ)を訪れる機会を得た。キャンプの周囲は、緑もなにもない、きわめて乾いた土地である。すぐわきにザアタリの集落があるにはあるが、僻地には変わりない。

キャンプの中に入ると、まず目に入ったのが、新しくシリア国境を超えてきた避難者たちに必要最低限の必需物資を配る光景であった。60才くらいの女性が配給されたと思われるマットレスに腰掛け、その娘とおそらく息子の嫁、そして孫と思われる数人の子供たちが彼女を取り巻いている。

話を訊くと、ダラアから逃れてきて、今日の朝早くキャンプに着いたという。足下をみると、女性たちは全てサンダルばきである。シリアでよく見かける、質の悪いプラスチックのサンダルだ。ダラアから歩いて国境をわたってきたというが、数十キロをこの履物で、道無き道を歩いてきたのだ。しかも、5人ほどの子供連れである。一番小さい子供は小学1年生だという。

また、少し離れて女性が数人いた。このグループはホムスからの人たちだった。とりあえずダマスカスまで出て、その後国境越えを決行したようである。その中におびえたような顔をした、無言の女性がいたので、彼女は?と訊くと、他の人たちが、彼女はアレッポからだという。思わず同郷人にあったような気がして、アレッポのどこ?と尋ねるとシャアール(アレッポ北東部、激戦区のひとつ)だと言ったきり、やはり怯えたように遠くに目をやった。

アレッポのことが訊きたかった。だけど、訊いてどうなるのか。町が、そして周囲の村がめちゃくちゃだということは、友人たちとのチャットで訊いている。それを、ことさら、この彼女に訊くことに何の意味があるのか。少なくとも、彼女の呆然としたような表情は、何を訊かずとも、全てを物語っている。

彼女も、きっとかなりの間をここで過ごすことになるのだろう。そして、数ヶ月キャンプ生活をしている他の人たちのように、キャンプ内の不自由さ、望郷の念、亡くなった肉親や友人への思いを、ようやく語りだすようになるのかもしれない。しかし、彼女は、今はそれすらできない。

写真や、ビデオでみたアレッポの荒れ果てた様子が、彼女の背後に見えたような気がした。

あの暖かい笑顔を失ったシリア人に会うことがこんなにつらいことだったとは。

2012-11-01

奇妙な会話


なんと奇妙な会話だっただろうか。

昨日、教え子のAが、スカイプの音声通話をかけてきた。彼は、この困難な中で修士論文を書き上げ、論文の提出と口頭試問の日取りなどを決めるために、約一ヶ月前にイドリブからアレッポに出てきた。大学には、町の状況のよい日に行き、残っている職員たちと必要な手続きを続けているようだが、担当の教官は「来るはずだ」としかわからない状態である。

夫も異例の外部からの指導教官として名を連ねていたが、彼亡き後は、別の教官に代わってしまった。しかし、これらの教官たちも、この状況では大学に行くことすらままならない。ある程度の手続きが済んだ段階で、Aはイドリブに帰ろうとしたが、アレッポでの衝突や砲撃・空爆は激しくなる一方で、道が封鎖され、帰るに帰れない。

彼がアレッポに出てくるときは彼の叔母の家に泊まるのが普通である。しかし、「家主」である叔母一家は、トルコに避難してしまった。従って、Aは一人、空き家になった叔母の家で暮らしている。

話し始めて、10分くらい経っただろうか?彼が、急に口をつぐんだ。何?と聞こうと思ったその瞬間、バリバリバリという音が聞こえた。

銃撃だ!

スカイプを通じて、銃撃の音がはっきりと聞こえてくる。彼は、「あ、始まった」と言った。私は、言葉を失い、どこで?と聞くのが精一杯だった。

「うちの前の通りみたいですね」「この近くに軍関係の建物があるから、もうしょっちゅうです。」と言ったとたん、ドーンというものすごく大きな音がした。

彼は少し沈黙した。今のは!今のはなに?!と言うと、あれはどうも大砲のようだという。そして、バリバリ、ドーンという音が数分間続いた。

会話どころではない。しかし、彼は話をしたいのか、パンの供給が少しずつ乏しくなってきていることや、毎日ほぼ20時間以上の停電のこと、燃料がないことから、来る冬への不安などを淡々と話し続ける。その間も、砲撃音は大きくなったり、小さくなったりしながら続いている。

なんとも奇妙な状況ではないか。

私は、お茶を飲みながら、気違いじみた砲撃の音を聞き、アレッポの窮状の話しを聞いている。砲撃音は、あたかも私の家の横で行われているように迫ってくる。それは、映画の効果音ではない。そして、つい去年までエブラ文書について私たちと議論していたAが、その砲撃からまさしく戸一枚隔てた家に一人ぽつねんと座り、私と会話をしているのだ。なのに、私はその破壊的な状況から距離的には、あまりにも遠い所にいる。

砲撃音は続き、Aも話しを続ける。この砲撃はいつまで続くのだろうなどと、ふと愚かなことを問いかけると、Aは、まあ夜半までですね、でもまた明日もあるに違いないですよ。エンドレスだ、とどうでもよいことのように言う。鋭い砲撃音が、神経の奥底にまで響く。砲撃は通話の間中聞こえた。

じゃ、またね、と通話を切ったその後も、彼は砲撃の中に一人、居続けるのだ。「でも、どこかで勉強続けられませんかね」と聞く彼と、文字通り、隣り合わせに起こっている戦闘。なんと、残酷なコントラストなのだろう。

2012-10-24

兵士

10日ほど前、教え子のSが日本にやって来た。日本の大学院入学の手続きを行うためだ。彼は、激しい攻防の続くイドリブ県出身だが、まずレバノンにいる兄弟のところに身を寄せ、ベイルートの日本大使館でビザをとり、来日した。

イドリブからベイルートまでの陸路が大変だったようで、最も近いシリア沿岸部を通ってのルートは、検問で「イドリブの住民」という理由で通行不許可、まわりまわって、ようやくベイルートに入ったようだった。

先日、東京に出てきた彼に出会う機会があった。1年半ぶり、昨年の春にアレッポで会って以来だった。FBで状況は何度か確認していたものの、実際日本で「生きて」会うことができたことが何より嬉しかった。彼も、とりあえず、日本で考古学が続けられるめどがついたことにほっとしてはいたようだったが、手放しで喜べないことは、お互いに認識している。彼は、両親はまだシリアに残っているのだから。

食事をしながら状況を聞いたが、一ヶ月ほど前に亡くなった彼の従兄弟の話を、賑わう東京の繁華街で聞くことは非常に奇妙で、罪悪感さえ覚えた。

彼の従兄弟は、数ヶ月前に兵役期間が終わり、帰郷するはずであった。しかし、兵役期間は有無を言わさずに延ばされ、兵糧を運搬する車の運転を任されていたという。一ヶ月ほど前、その兵糧用のトラックに仕掛けられた爆弾が爆発し、中にいた彼は一瞬のうちに亡くなった。

彼は、「政府軍」にいた。しかし、望んで「政府軍」であったわけではない。そして、本来ならそこから解放されていたはずの時期に爆死してしまった。

Sは言う。彼が日本に発つ前に、シリアからメッセージが来た。そのメッセージには、従兄弟の従軍していた期間の給料として、6万シリアポンド、約6万円が従兄弟の両親のもとに送られてきたことが書かれていたという。

これが、「政府軍」で働いた報酬なのだ。従兄弟の血の代価なのだ。Sはそれだけ言って、少し水を飲んだ。そして続けた。

これから、どうなるのか、誰にもわからない。だけど、この政権は変らなければならない。国際社会とやらは、現政権が変っても、もっと悪い政権がその場所に納まるかもしれない、と言う。それでもいい、変ってくれ、と従兄弟を失ったSは言う。もっと悪いなら悪いで、僕たちが責任を取る。ただ、変ってくれ、まずはそこから始まるんだ、と。

報道は「政府軍」と「反政府軍」の攻防を伝える。しかし、これが政府軍の兵士の現実であり、現政府に反対するものの感情なのだ。

Sは10月末に一旦日本を離れ、再び年明けに来日する予定である。どんな状況であれ、われわれは、シリアの遺跡をもう一度調査するであろう、若い世代に賭けたいのだ。

2012-10-14

ズフラート(ハーブティー)


風邪をひいてしまった。咳が止まらないので、何か薬はないかと探していると、昨年シリアで買ってきたズフラートが出て来た。ズフラートとは、ハーブティーの一種で、シリアでは普通に飲まれているが、咳にいい、と風邪の時はよく勧められたものだ。

お湯を沸かしてズフラートを煎れ、飲んだ。この「花のお茶」は喉の奥にゆっくり沁み、体を温めてくれる。両手でカップをもち、お茶の湯気を吸い込みながら、先日、トルコ国境リーハニーエ周辺の、シリア側の村で自由シリア軍のロジ隊と働いているOの言葉を思い出した。

シリアからトルコに20万人近い避難民が流れているのは周知であるが、最近、トルコ側は、その対応に苦慮しており、受け入れを制限し始めている。そのため、多くの避難民が今Oのいる村や、その周辺で足止めを食らっているというのだ。

ここに来る避難民の多くはアレッポからの人たちであるという。昨今のアレッポ状況の極端な悪化で、避難民は増え続けているが、彼らはトルコに抜けることができず、この村に宿営せざるを得ない。

この彼らのために自由シリア軍のロジ隊は、数箇所でキャンプを設営しつつあるが、そのために必要な、極めて基本的な物資に事欠いているという。テントそのものも追いつかず、オリーブの木の元で暮らしているような家族もいるのだ、と。

「もうすぐ、寒くなります。もしこのままの状態が続いたらどうなるのか?」

彼らは勿論一般市民だが、負傷して、ここまでたどり着いたものもたくさんいる。しかし、その手あてのための薬や設備は勿論、十分であるわけがない。また宿営状況が悪いことから、病気も多く、特に最近では、結核と思われる病気がはやり始めたらしい。彼がいうには、「そのこともあって、今日、トルコは100人の避難民の患者の入国を受け入れましたよ」という。

「私たちは精一杯やっている。なのに、事態は硬直したように、のろのろとしか動かない。状況は極めて悪い。何が起こりつつあるのか、どうしてこんなことになってしまっているのか、といつも自問自答するしかない。」呻くようなメッセージだった。

私が咳をしていたら、黙ってズフラートを煎れてくれた、優しいシリアの人たち。今、彼らは何をもって、彼らの体を温め、心を休めることができるのだろうか。そして、私は、何をもってそれを手助けできるのだろうか。

2012-10-02

アレッポ・スーク炎上と沈黙の戦い


シリアでの、そしてアレッポでの戦闘は続いている。

しかし、ここ数日間に届いている知らせは、私にとっては今までで、最も衝撃的な映像を伴っている。ジュダイデ地区のダール・ザマリヤ破壊とアレッポのスーク炎上の映像である。

ダール・ザマリヤはアレッポのジュダイデ地区に多く残る18世紀の歴史的建造物のひとつである。15年ほど前から始まったオールド・アレッポの活用計画の中で、外国の援助なしに地元の資本が中心となり、古い建築を修復し、地元の建築士たちが実際の図面をひき、それまで荒れ放題だった古い建物を蘇らせた。これは単なる修復ではなく実益も伴った事業で、この地区では数軒の古建築がしゃれたレストランとホテルに生まれ変わったのである。

また、アレッポのスークは、中東最大のスークとも言われる。初めて訪れたひとは、雑踏に驚いて迷路と思うことが多いが、実際は一種の条里制とも言うべきヘレニズム時代のアゴラの上に立てられている。間口の狭い店がびっしりと並び、所々にモスクやキャラバン・サライ(隊商宿)があり、香料屋から流れる匂いはもとより、石鹸、食糧品、その他の雑多な品物からの独特の香りは、外国人にとっては異国情緒をかもし出す重要な要素だ。

しかし、アレッポのスークは地元民が今でも日常生活の必需品を買いにくる、生きたスークである。なんでもあるのだ。近隣の村からも村人が買い物に来る。彼らは服装や、頭に巻くものの違いなどで、大体どの地方から来たかが、おおよそ見当がつく。民俗学博物館よりも、風俗がよくわかるのが、アレッポのスークだった。

この二つのアレッポを代表する場が、破壊され、燃えた。



燃えた、と過去形で書いたこの瞬間、イドリブからアレッポに出てきているAがオンラインに来た。聞いてみると、たった今、現地時間9月30日午後5時現在でもスークの方角から煙が上がっているという。(そして、そのことを伝えながら、Aは「あ、今、爆撃音がして、家が震動しました」とも書いてきている。)

最初にダール・ザマリヤ破壊のニュースを見たとき、教え子のWにそのことを言うと、「確かにショックです。でも、今頃は、何を聞いても、他の多くの破壊の内の一つに過ぎないと思ってしまう。なんだか、感覚が鈍ってきたみたいなんです。」と言う。「感覚が厚いワニの皮にでも包まれてしまったような、そんな感じ。いや、と言うよりも、感じようとするとつらいから、感じないようにしているのかもしれない。」

彼の一言、一言がずっしり重かった。そして、現在、おそらくほとんどのシリア人は、彼と同じような思いを共有しているのだろう。なるだけ、感じないようにするのだ、でなければ、気が狂ってしまう・・・彼はそう続ける。

「でも、先生、こんな生活の中で、いいことも見聞きします。それって言うのは、中には、この厳しすぎる現状の中で、無言で堪えて、日常を保っている、保とうとしている人たちがまだいるんです。どこに行っても、まだ仕事を普通にやろうとしている人がいるし、普通の生活を続けようとしている人がいる。彼らは沈黙の戦いを続けているんです。」

「僕は、こんな感じで、そういう人ほど強く生きてないと思う。だけど、少なくともそういう人がいることも、伝えておきたいんです。」

私にできることは、さらにその声を伝えることしかない。

2012-09-18

砲撃と隣り合わせ


今日は、アレッポから数キロの郊外の村、カファル・ハムラに移った元教え子のAと再び話すことが出来た。彼女はこの数日オンラインにはいたようだが、いつもすれ違いだった。

彼女のいるカファル・ハムラの村は、甥のハムドゥのいるビレラームーン村の隣村なので、彼のことはわからなくても、せめて村の状況だけでも聞ければと思った。そのことを伝えると、彼女は、もし携帯番号でもわかったら、今電話をかけてみますよと言うので、かけてもらうことにした。

しかし、すぐに通信圏外のメッセージが流れたらしく、「近頃、毎日どこかで空爆があり、空爆のある地域では電話が切られるのです。さっき戦闘機の音が聞こえていたから、たぶん今に、始まるんだと思います」と言う。恐ろしい現実なのだが、彼女は淡々と伝えてくれる。

あなたのところは?と聞くと、「今のところは大丈夫です」「ただ、昨日の夜まで断水で、タンクの水がもう尽きかけていました。ようやく夜に水の来た音がして、ほっとしているところです。」ということである。「水も、電気も、電話も、みんな好き勝手に切られるけど、さすがに空気だけは切れないね、ってみんなで言ってるんです。」

愚問と思ったが、彼女に質問をしてみた。今、シリア国民のどのくらいが政府を支持していると思う、と。彼女の考えでは、30%以下ではないだろうか、と言う。「革命」当初は少なくとも半数は政府を支持していたと思うが、流血の惨事などを受けて、今はあるいはこれ以下かもしれない。勿論、残りがすべて自由シリア軍を支持しているわけではない。と言うのは、一部は、彼らの存在が都市への攻撃を誘発していると考えているからだ、と簡潔に答えてくれた。

「だけど」と彼女は続ける。「自由シリア軍がいてもいなくても、爆撃はありますよ」「ただ、彼らの作戦はまずいのではないかと・・・」と書いてきたすぐ後だった。

「ごめんなさい、今家の横で、砲撃が始まったみたいです。シェルターに行かなきゃ。」

そして、彼女はオンラインから消えた。


(追記:このあと、30分後に、彼女は再びオンラインに来た。「今日は二発だけでした。こんなことにも慣れるもんですね」と報告してくれた。小学校の先生である彼女は明日、「学校が始まるらしい」ので、とりあえず行ってみようと思っている、とも言っている。)

2012-09-11

臨時召集


昨夜2週間ぶりで、アレッポとイドリブの友人たちがオンラインにいた。そして、みんな、「まだ生きてる」というメッセージを残してくれていた。

FBの、緑の小さな点が彼らの名前の横についている。この期を逃すまいと、急いで話しかけた。教え子のWは、この2週間の間に、彼の家の建物の屋上が砲撃を受け、大きな被害を受けたと語る。でも、「とりあえずウチの部分は崩れませんでした。まだ、元の家に住んでます。」という。

彼に、アリーハのAのことや、甥っ子のハムドゥーのことを聞いてみた。Aは、アリーハからイドリブの町に移っているが、数日前に連絡をとり合い、とりあえず無事を確認したという。またハムドゥーには、こんな状況の中、先日大学に行き、偶然出会ったというが、彼の村は、アレッポの激戦区とまでは行かずとも、いつどこで爆撃にあったり、弾が飛んできてもおかしくない状況になっていると話していたという。この2週間で、状況はあの村では悪化しているようだ。

Wは続けた。「でも、こんな中で、僕たちシリア人は、決して捨てたもんじゃないことを確認している。余裕のある人は、進んで被害にあった人や、生活できなくなった人を、物質的にも、精神的にも助けている。シリア人は必死で、耐えて、しのいでいる。国際社会からの支援なんか、もうどうでもいい。期待するなんて、この状況じゃ、もう意味がない。自力で、やるしかないんです。」

先生、気にしなくていいよ、と彼は続ける。出来ないことは出来ない、仕方ないんだからと。

何と返事すればいいのか。ついこの前まで、私は彼らを「彼ら」という代名詞で呼んでいなかった。私にとって、彼らは「我々」だった。なのに、私は今、この「国際社会」の片隅にいるしかなく、「彼ら」にかける言葉さえ見失っている。私は・・・と続けようとするが、言葉にならない。その私の気持ちを汲んでくれたのだろう。また、これからもネットが開いたら、声をかけてくださいね、と彼は書いてくれた。

ラタキアのAからも、今朝メッセージが入っていた。そこには、数日前、臨時召集令状が来たらしいことが書かれていた。彼は今年の初めに兵役を終えたにもかかわらず、一ヶ月以上前に、軍隊から臨時召集が来たと言っていた。そのときは、それほど深刻なものではないと思っていたが、今回は再度の催促のようである。

同じシリア人を殺すための軍隊には行かない、行きたくないと、若い友人たちはすべて口をそろえて言っている。Aも例外ではない。どうも、彼はこの2度目の臨時召集のあと、強制的に召集されるのを恐れ、自宅をでて、友人宅に「逃げ込んで」いるらしい。しかし「逃げおおせるものではないと思う。だけど、どうしたらいいのか、わからない。」「今、同じシリア人を殺すための軍隊に誰が好んでいくと思いますか?でも、この前、友達が逮捕された。召集を拒否したんです。」

シリアでは、傷をえぐるような毎日が続く。

2012-09-03

過ぎ去る夏

アレッポとの通信は、まだ、ほぼ途絶えたまま。しかし、数日前、数分間だけ、教え子のAと話すことが出来た。状況が変らないことには違いないが、日を追うごとに具体的な問題がでて来ているらしいことを彼女は伝えてくれる。

例えば、彼女の家である。今、彼女の家には、サラーハッディーン地区の家を潰され、逃げてきた兄弟の2家族が同居している。しかし、別の地区にある彼女の大家の自宅が爆撃で潰れ、彼女一家(今となっては3家族)の借りている家に住まざるを得なくなったらしく、家を明け渡してほしい、と言って来たという。仕方なく、ハレイターンという、アレッポ市街から15分ばかりの村にある親の実家にみんなで移ることにしたらしい。

まだ、行く先があるだけマシです、と彼女は言う。行く先さえわからない人が多いのだからと。とにかく、彼女らは今、引越しをせざるを得ない。それも無事に済めばいいのだけど・・・。

彼女は小学校の先生をしている。9月になって学校が始まったら、あの田舎から通うのだろうか、と心配になったが、それよりも何よりも、この新学期、アレッポで学校を開くことが出来るのだろうか?という疑問が残る。

教育省は、勿論、新学期は例年通り始めると通達しているらしいが、彼女は言う。「今、学校はどこも避難民でいっぱいです。もし学校が始まったら、彼らは行き場がない。通達は、建前だけ。実際どうするべきなのか、検討がつきません。」「しかも、アレッポでは、親はこんな状況の中、子どもを学校に送るのを非常に恐れています。アレッポから出た人もいっぱいいるし。まともに学校が開けるとは思えないですよ。」

実際問題として、子どもだけではなく、大人も町をまともに歩けるのだろうか。

たまたま、今日オンラインにいたホムスのSちゃんに聞くと、彼女のアレッポに残る両親は、ようやく昨日、少しだけ外出することが出来た、と言っていたらしい。しかし、それも限られた地域のみで、アレッポの中心部でも一部(サバア・バハラート周辺)は、狙撃者が「うようよ」居て、危険極まりないらしい。

夏はもうすぐ終わる。

普通ならば、新学期のかばんを買ったり、文房具をそろえたりし始める時期だ。娘が就学中は、この時期、制服を買いにいったり、色指定のノートのカバーを探しまわった。この時期、秋を運んでくる涼しい風の中、夕方の町に出るのは、それなりに楽しみだった。

辻つじにいるとうもろこし屋の、甘いとうもろこしをほうばるのも楽しみだった。
あのそぞろ歩きの宵の、店の明かりが、ぼうと脳裏に蘇る。

2012-08-30

慟哭


昨日、トルコにいる自由軍のMSと、途切れ途切れながら、音声で話すことが出来た。

話しが、再び山本美香さんのことになったとき、彼が少しナーバスになった。彼は言う。「彼女の死を我々も悼んでいる。冥福を祈っている。彼女の血を評価している。日本は彼女の死をずいぶん報道したみたいだし、世界もそうだ。しかし、日本は、流され続けている数万ものシリア人の血には関心がないみたいじゃないか。政府もそのことに関する声明を出したようだけど、我々の血には一言も触れなかった。仲間も彼女と一緒に死んだのに。」

「なぜだ。我々はいつも日本を好きだと思っている。もう一年半たった。だけど、この中で、我々の血に関して、関心がある発言を聞いたことがない。」

口を挟もうとしたが、「あなたに言っているんじゃない。わかってる。だけど、我々の仲間の中には、あの事件のあと、じゃあ、俺たちの血はどうなんだ、と苛立っているものがたくさんいる。あなたに言ってもどうしようもないかもしれない。でも、我々はすごく傷ついている。」

援助が、といいかけたら、彼はさえぎった。「援助のことを言ってるんじゃない。何で関心がないんだ。みんな、これだけ死んでいる。それなのに、世界がそのことに関心がない、と感じることが、どんなに傷つくことか。」

何かを言おうとしたが、彼の勢いに負けた。彼は、繰り返した、我々の血は人間の血じゃないのか、と。

その後、音声が途切れ途切れになり、切れてしまった。

わかっている、と繰り返した私。だけど、何がわかっているのか、わからなくなった。20年以上過ごした、シリア。大地は赤く、肥沃である。その土で育った麦を食べ、野菜を食べた。すべて私の血に、そして娘の血になった。それだけでも、彼らの血と交わっている、そう思ってきた。

しかし、現実に、今、私は日本にいて、頼りない話ばかりしているのだ。彼が私を責めたのではない。わかっている。だけど、彼の感情もまた事実なのだ。

数時間後に、FBを開くと、メッセージがあった。

「私は警察の将校職が染み付いていて、外交的な口が聞けず、申し訳なかった。あなたは私たちのうちの一人だって、思っていますよ。」

そうありたいと思っている。

2012-08-23

ラマダン明けイード


ラマダンがあけ、イードが始まった。イードの挨拶を、チャットのメッセージに書き込んだ。相変わらず、誰もオンラインにいないが、いつか届くだろう。

そして、イード3日目の21日早朝、日本人女性ジャーナリストの山本美香さんがアレッポで亡くなったというニュースを知る。衝撃だった。そして同じ日、仕事の関係で見た、ヴィデオに映し出されるアレッポの街の様子に、さらに頭が真っ白になった。

イードである。いつものイードなら一張羅を着た人々が、親戚や友人の挨拶周りで、うろうろとしているはずの通りには、今年は誰もいない。臨時に街角に設置されるブランコはなく、ただただ銃声の響く街。お年玉を持って、駄菓子屋に走る子どもたちがいるはずもない。

この状況では当たり前なのだ。しかしわかっていても、悪い夢を見ているようだった。

判然とはしないが、おそらくジャミリーエ地区付近ではないかと思われる街かどには、土嚢が積まれ、銃を撃つ兵士が映し出される。また、他のシーンに登場する街角の映像にも、見慣れたパターンの家が見える。確かにアレッポである。だけど、そこは、なんと違った世界になっていることか。

21日深夜、夫の娘Oがオンラインに来た。他の二、三人も。急いでとりあえずOにメッセージを送った。今日は、携帯を通じてのFBならば通信できるという。これもいつ切れるかわからないが、とりあえず彼女はいた。長くは語れなかった。でも、とりあえず確認した。それでよしとするしかない。

そうこうしているときに、自由シリア軍のMSがメッセージをくれた。その中には山本さんの遺体をシリアからトルコへと移送するために尽力してくれた、自由シリア軍の士官の名前があった。また、山本さんへの深い哀悼の意を表するシリア人ジャーナリストたちのことも書かれていた。

彼らがどのようにこの件で働いてくれたか、どんな言葉を交わしながら動いてくれたか、想像がつくような気がする。あまりにも悲しい出来事ではあるが、MSの短いメッセージの中に、いかなる状況にあっても暖かいシリア人の心が読み取れた。

山本さんの冥福を心から祈るとともに、彼らにも、やはり深い特別な思いを送りたい。彼ら全てに祝福あれ。

2012-08-16

トルコの離反者キャンプとアレッポの不気味な沈黙


数日前に、ふとしたことから主人の姪っ子の消息がわかった。彼女は、警官で今は離反してトルコのアンタキアの自由シリア軍司令部にいる彼女の夫とともに、離反者専用のキャンプにいるらしい。彼女の夫は、今回、反政府のひとつの砦であるマアッラト・ル・ヌアマーン出身で、この町に住んでいたが、数ヶ月前に所属の警察署を離反し、トルコに逃れたという。

甥っ子のハムドゥが、彼がヤヨイと話したがっているから、と彼のスカイプ・アカウントをくれた。コンタクト・リクエストを出したとたんに、承認の返事が届き、いきなりコールがあった。

彼は、まず姪っ子が声を聞きたがっているからと、姪っ子にかわってくれた。久しぶりに聞く彼女の声である。そして彼女は、「Mおじさんと家族もここにいるのよ」と伝えてくれた。

M?義弟のM?では、彼らはどういう経緯かはわからないが、どこかで合流したのだ。あいにくその日は、Mはイスタンブールに行っていていなかったが、とりあえず彼の消息もわかり、それなりに安堵した。

彼女は、「キャンプの生活は非常に厳しいけど、今はどうしようもない。でもアレッポが懐かしくて仕方ないわ」と言っていた。彼女らは、特に立場上、当分はシリアに戻れないだろう。

その後、彼女の夫MSと話すと、彼は、現地で司令部の広報担当をしているという。「離反はしたけど、前線には行きたくない。でも、現況のために、何かをすべきだ。だから広報を選んだんです。」という彼に、給料なんかもらってるの?と下世話なことを聞いた。

彼が言うには、給料などない。ただ、キャンプにいるので、食住は無償、あとはシリアから持ち出した貯えを少しずつ使って、必要なものを手に入れているそうだ。

「アレッポからの情報も、結構頻繁に入るし、気になるだろうから、また聞きたいことがあれば答えます。ちなみに昨日来たアレッポ城の写真を送りますよ」とダメージを受けたアレッポ城の写真を送ってくれた。

夫の一族は、夫の影響か、職業や日常生活は考古学などに縁遠い割には、遺跡に関して、それなりの理解を示してくれている。彼も、FBに自由シリア軍の兵士が遺跡を破壊せぬよう、という主旨のポストをしていた。

あれから数日。ネットのニュースは、アレッポへの大規模攻撃を伝えるが、詳細は不明である。

問題は、この2日というもの、アレッポの知人、友人が誰もオンラインに来ないことである。甥っ子が3日前にチャットを仕掛けてきたとき、少し用のあった私は、またあとでね、と応答した。

しかし、それ以来、みんなが沈黙している。電話も携帯、地上電話ともつながらない。心配なので、まだレバノンにいるSさんに聞いてみた。彼女もやはりアレッポとの通信を試みていたが、同じく、誰ともつながらないという。

アレッポで何が起こっているのか?不気味な沈黙の日々が続く。

アレッポ、ハムダニーエ地区の砲撃を受けた建物。
教え子のSが住んでいた。彼は、とりあえず無事で、今田舎に帰りついたらしい。

2012-08-07

アレッポ城


昨日(5日)来、アレッポ城が砲撃を受けているというニュースが伝わって来ている。最初にそれらしきことが、FBに載ったときは、まさかと思った。その後、夕方FBを開いたら、自由シリア軍がアレッポ城に立て籠もっているがために、政府側が彼らに、そして城に攻撃を仕掛けている。自由シリア軍よ、城から出てくれ、という内容の投稿があった。

そして、その夜中。ベイルートに一時「避難」した友人のSさんとスカイプで音声通話をしたとき、その第一声が「アレッポ城に何が起こっているか知ってる?」というものだった。

このニュースが間違いであってほしい、と思っていた私は、彼女の話に、改めて愕然とした。彼女もアレッポの友人から聞いたらしいが、その友人は、その目で砲撃が行われているのを見たというのだ。

その後も、FBで数人がこの件に激しい失望感をもって触れているのを見た。詳細はやはり不明だが、アレッポ城にまで騒乱の手が伸びたのは本当らしい。

アレッポ城はアレッポ市民の象徴的存在だ。周辺のオールド・タウンも含めて世界遺産にもなっている。いや、世界遺産云々という話はよそう。その「栄誉ある」タイトルでさえ、空しい気がする。そして、Sさんが言った言葉が、なによりもこの出来事へのどうしようもないやるせなさと、今起こっていることが含む矛盾を物語っている。

彼女は言った。「フランスが統治していたときでさえ、アレッポ城を攻撃したことなんかない。なのに、今、私たちが、私たちの手で、私たちの象徴を壊してるのよ。誰でもない、私たちが・・」

彼女は、今回ベイルートに着いたときのメッセージとして、「アレッポでは、私たちの体が砲撃を受けている。だけど、ここでは心に砲撃を受けているような気がする」と書いてきた。とりあえず安全な場所にいるからと、手放しで喜ぶ避難民は誰もいない。みな、あとに残した家を、街を、そして国を思う。そして離れれば、離れるほど、その気持ちは強くなる。

日一日と状況は悪くなっている。危険度も増している。アレッポの、いわゆる閑静な地区であったメリディアン地区でさえ、一昨日あたりから砲撃の対象になり始めている。この地区に住む友人は、昨日緊急の用で外出し、戦車の間を縫って、程遠からぬサビール地区にある実家に行ったが、当分自宅に戻れるめどはつかないと、Sさんに伝えてきたという。

アレッポが麻痺している。アレッポの優しい風が、今は崩された建物の粉塵を舞い上げている。イフタールは、アザーンではなく、銃声を聞きながら食べる。

それでも・・・、彼女は、ベイルートでの用が終われば、やはりアレッポに帰って来るに違いない。

2012-08-04

人々は強く


アレッポでの本格的な「戦闘」が始まったとき、スッカリという地区にいる友人が、現地時間の早朝にチャットをしてきた。スッカリはサラーハッディーン地区と同様、アレッポの中では一番、激しい闘争に巻き込まれている場所である。

彼は、その時、自宅から若干離れた友人の家にいたようだが、激しい銃声、砲声で夜は眠れず、かといって家にも戻れない状態であったらしい。チャットの途中で、スッカリの自宅にいる彼の母親から電話がかかって来た。母親は「今は帰ってきちゃダメ」と言っているらしい。

でも、ということは、お母さんたちが大変なことになっているんじゃない!というと、今、このあたりはもうどこもかしこもだめだからね、と結構落ち着いている。しかし、かなりの確率で、かなり危険な目に会う、と覚悟をしている。実際、「死ぬかも知れない」という表現を使った。普段なら冗談にしか聞こえない言葉が、今は真実になってしまっている。そうこうするうちに、ネットが切れたのか、停電になったのか、彼はオンラインから消えた。

その日のニュースは、アレッポでの激しい戦闘が一面を飾っていた。集中的に戦闘が行われているサラーハッディーン地区には、一般人はもうほとんど残っていないと伝える。

そして2日後。彼がオンラインにいた。今、ハラブ・ジャディード地区の友人の家に家族全員で避難している、と伝えてくれた。よかった、とりあえず、逃げたんだ。「走ったよ。とにかく走った。走るしかなかった。」と言っていた。多くは語ってくれない。でも、彼のこの言葉は十分に戦慄的だった。

同じ日、女医のSさんは、自分のもうひとつの持ち家を、サラーハッディーンから逃げてきた人たちに解放したという。また、FBをみたら、彼女や他の数人が、どこの学校が「避難民」を一時「収容」しているか、どの病院が救急の用意があるか、などを掲示していた。

おそらく、ネット以外でもこういったニュースがなんらかの形で伝えられ、自助努力がなされているのだろう。政府が「なけ」れば、自分たちでやるしかない。こんなどん底で、人が動いている。

ダマスカスでも、戦闘が激化したあと、やはり友人が、救急病院、薬局、避難所などを詳しくFBに載せていた。

出口はまだ、一向に見えない。

だけど、シリアには、まだ人がいる。信じるしかない。

2012-07-28

愛おしい祖国


友人のSさん一家は、レバノンにまず出るということになったらしい。第一の目的は息子のH君のフランス留学が決まったため、ベイルートのフランス大使館での手続きをしなければならないからだ。(ダマスカスのフランス大使館は閉鎖)

しかしそのあと、再びシリアに戻るのか、そのままフランスに家族で行くのか、まだ決めかねているともいう。フランスに行ったら、今までの蓄えを切り崩して生きていくしかない。シリアでは、建築士の夫の仕事は全くストップしていて、彼女の病院勤務の給料で生活している。医者であるから、他の仕事よりはまだ良く約1000ドルで、暮らしていけないわけではない。しかし、状況を考えると、毎月の給料と安全を天秤にかけてしまうという。

「ばかげた計算かも知れないけどね。それに国外に出るという考えはずっとあって、私たちにはまだそれをする余裕も若干あるけど、でも最後に煮え切らないのは、国を捨てるのが悲しいからなの。」

「カイロにも行った。同じアラブの国で、そこでもいいかも、とかも考えた。だけど、シリアは、そしてアレッポの街は特別の香りがある。なんて、素晴らしくて愛おしい街なのだと、今更噛みしめているの。この国が、この街がなんて大事なんだろう、って。」

この気持ちが彼女を、毎日銃声や砲撃の絶えない街になったアレッポに留めている。

ダマスカスの友人の言葉を思い出した。彼女は言う、「ダマスカスは母親のようなもの。ここを離れては生きていけない。ここを失くしては生きていけない。喪失の危機に瀕して、初めて、こんなにこの街を愛しているのがわかったわ。」

「ダマスカスは「歴史のある街」なんて言うけど、それって本の中のものじゃないのよ。古い街区の中を歩いて、そこの匂いをかいで、そこにいるスークのおじさんと話しをして・・・それが私たちの歴史なのよ。今ほど、ダマスカスが好きだって思ったことなかったわ。」

二人の友人の、自分の街への思い。これが、シリアを作るものなのだ。しかし、そのために、やはり犠牲の血を捧げなければいけないのだろうか。

フェースブックを開けると、「三日間連続の砲撃、110発が、僕の地区に打ち込まれています。3日連続停電、15日間断水。先生、神様に祈っていてください」イドリブのアリーハにいる教え子の、おそらく停電の合間に書いたのであろうメッセージが、残っていた。

2012-07-25

自由シリア軍


甥っ子のハムドゥーが現地の勤務時間にチャットをしてきた。おや、と思い、話し始めると、「今、考古局だけど、今日は、逃げてきたよ」という。

びっくりして、何があったのかと聞くと、街中の考古局の一支部にいたら、近くの地区(バーブ・アル=ハディード)で、バスが炎上しだしたという。銃撃も遠からずのところで始まり、また上空には軍機が飛んでおり、アレッポの半分くらいの地区で衝突が起こっている感じだという。しかし考古局のあたりは、別世界のように普通なので、まずはここに「避難」したらしい。

衝突に関しては、もう話したくないようだった。生活は、と聞くと、またガスの価格の話しになった。この数日、再び狂気の値上がりで、昨日、今日で4500ポンドになったという。つい1週間前に、3200ポンドだと聞き、仰天していたのに・・・。ラマダン月に入り、断食後の食事には、少なくとも火を使って料理したものを食べたいものだ。しかし、ガスがないと・・・。

この値段が上がった、あの値段が上がったという話しのあとで、「結局僕はなにをすべきなんだか。自由シリア軍に入るべきか?」などと言い出した。

何を言ってるの、と言おうとしたら、「M叔父さんも自由シリア軍に入ったんだ。」という。え、だって彼はトルコに逃げたんじゃ?と言うと、トルコに逃げたあと、警察を離脱したことを表明して、向こうで自由シリア軍に入ったと言う。

その他、彼の知り合いは、ずいぶんたくさん自由シリア軍に入っているらしく、一種の「自由シリア軍に入る雰囲気」が流れているようである。しかし、戦闘が激化する中、自由シリア軍に参加するのは、冗談ではない。まさしく、命の問題になる。日常生活をしていても、命の保障はないような事態になっているのだから。

彼らの「自由シリア軍」への参加の思いは、単なる思い付きではないと思う。国際社会とやらは、双方に武器を納めよ、と言う。そして、私は、血を流さないで、と言う。しかし、人々は現地の切実さの中で、やはり何か決断を迫られる。

これが、「戦闘が始まった」ことの本当の意味なのか。

ハムドゥーの言葉に返す言葉が見あたらなかった。

ぼうっとしていると、「今日はもう仕事にならないから家に帰る。またね」と言って、彼はオンラインから消えた。

2012-07-22

ついにアレッポも


ラマダン月が始まった。今年のラマダンは、シリアにとって、去年以上に厳しいものになりそうである。

まず、ラマダンの始まりが問題であった。サウジが20日にラマダンの始まりを発表したが、シリアは、イランと歩調を合わせて、21日に始まりを設定した。これに反対する人は、20日から断食を始めた。そうすると、20日に断食を始めたかどうかで、政府側、反政府側の活動家というレッテルを張ろうする向きが現れた、という。

教え子のWが、これを嘆いた。確かに、この行為は反対の表明ではあるかもしれないが、だからと言って、急に急進的になったわけではない。また逆もそうである。なんで、すべて二つに分けるのか。無用な分類であると。

しかしながら、20日から、アレッポでも、事態は急速に悪化しだしたようだ。

ある教え子は、30台の戦車が競技場前の通りを通っていった、という。また、先のWの父親の事務所は、アレッポでも一番状況の悪い地区にあるが、昨日事務所に行ったら、銃弾の痕が残っていたとも聞いた。そして政府軍が、アレッポ、サラーハッディーン地区にいる戦闘員たちに、24時間の猶予を与えた、という。

猶予、つまり、その間に投降しなければ、徹底攻撃ということだろう。

そして、先ほど、友人のSさんからのメッセージで、アレッポ空港が閉鎖され、パリからカイロ経由でアレッポに帰る予定の娘のGちゃんが、カイロで足止めを食らっていることを伝えてきた。

教え子の女の子は、昨日は朝からずっと銃声や砲撃の音が聞こえるといって、家に閉じこもっているといっていた。

ついにアレッポでも。でも、まだ信じられない。

こめかみのところが痛い。昨夜から今日にかけてのアレッポからのニュースが、私を、まだ夢を見ながら、早くこの夢から覚めたいと思っている、そんな状態にしている。

聖なるラマダンに祝福あれ。

2012-07-17

帰還


一昨日、捕まって刑務所に入っていた2人の甥っ子が帰ってきたというニュースが来た。

伝えてくれたのは、やはり甥っ子のハムドゥで、よかったね、というと、「それが・・まあ帰ってきたんだけど、めちゃくちゃやせて帰って来たんだ」と言う。

「骨と皮っていうのはあのことだ。あいつらに比べたら、ヤヨイなんかずっと太ってることになるくらい。」なのだと。

そして、「もちろん会いに行ったけど、問題は、あいつら、なんだか腑抜けみたいになってたんだ。ボーっとしてなんだか、頭がヘンになったみたいな感じだった」という。

ショックだったが、それはそうだろう。短期間にそんなにやせて帰ってきたと言うことは、この一ヶ月ちょっとの間に、よほど厳しい環境にあったのだろうから。精神的にもダメージが大きいことも想像がつく。

帰ってきた二人のうちの一人は、高校時代、歴史に興味を持ち始め、夫がよく「講義」をしに彼の家に行っていた。

彼の家、すなわち義理の妹の家はアレッポ郊外の村にある。広い庭やベランダがあり、夏の宵には夫はそこで「戸外レッスン」をした。アレッポの夏は、昼間の暑さは厳しいが、夕方になると、素晴らしく涼しい風が吹く。ましてや、彼女の家は田舎家で、寒いくらいに風が吹くこともある。そういう時は、寒がりの私は、彼女の持ってきてくれる毛布に包まって、夫の「レッスン」を聞いた。

甥っ子たちは、元来非常に元気のいい、素朴な田舎の青年たちだ。力仕事もいとわない、強健な体を持っている。その彼らが、今、怯えたように、やせた体で、あの風の中にいるのを想像するのは、なにか悪夢を見ているようである。

それでも、義理の妹は、慣習的な意味もあり、帰還祝いの昼食会をするようだった。アラブの美徳でもあるのだが、彼女は人を「招待」をするのが好きである。大変なのよ、などといいつつ、呼ばれていくと、いつも食べきれないほどの料理を勧めてくれた。だけど、今回、彼女はどんな気持ちで招待の料理を作っているのだろうか。

おそらく、しばらくしたら、若者たちは体力を取り戻すだろう。精神的にも、落ち着くだろう。しかし、この一ヶ月間に起こったことを、そう簡単に忘れることは出来ないだろう。

彼らだけではない。今、シリアでは、彼らのような例は五万と起こっているに違いない。しかし、それは空恐ろしいことではないか?何かが揺れている。武力抗争の影で、もっと恐ろしいことが起こっている。

ハムドゥはさらに伝えてきた。「また、今日も村の人が2人死んだ。兄弟でね。石切職人だよ。車運転してたら、撃たれたらしい。ヤヨイも知ってる人たちだと思うよ」

「おじさんは、死んで、こんなこと見聞きしなくてよかったのかも知れない。あれで、よかったんだ。僕もほんとに明日がわからなくなった」近頃は、ハムドゥもすぐに弱音を吐く。

他の人に言えないのだから、私が聞くことで少しでも吐き出せるならと、思う。でも、停電が毎日8時間である今、チャットも最後には駆け足になる。


(追記)
ガスボンベはついに3200ポンド(約6000円)になってしまったという。つい2週間前は2200ポンドだと言っていたのに。ちなみに私が去年の4月、最後に買ったときは、手数料を入れて350ポンドだった。

2012-07-07

奈々子の友達Sちゃんの決断


6月の初めだっただろうか、娘の奈々子が「お母さん、Sちゃんがホムスに仕事場を変えるらしいよ」と言った。え、と一瞬耳を疑った。

Sちゃんは、ホムスに両親の実家がある。数年前、奈々子が他の友達と一緒にベイルートに言った際、行き、帰り、その実家で世話になった。現在も、他の親戚も含めてまだホムスに残っているとは聞いたが、わざわざ今、この時期に彼女が行かなくても。

しかし、もう決めてしまったようだった。彼女は私たちが2月にシリアを離れるときに、シリアの現状を知ってほしいと、手紙を託してくれた。あのころから思いつめてはいたことは知っていた。しかしこの決断・・・・。ホムスの一部は壊滅的な状況だが、まだ街のなかでも大丈夫なところはあるのだろう。だけど、アレッポよりは、かなり状況は悪いのは周知である。

そのあと、彼女は、何日かたって、フェースブックに「ホムスに着いた」という知らせを出したらしい。それ以外のことはわからない。仕事といっても、まともに出来る状況なのか?

女医のSさんとスカイプをしたときに、彼女は言っていた。「勇敢なのか、気違い沙汰なのか・・・、でも彼女は敢行したのよね。」と。前の彼女なら、絶対に反対意見を言ったであろう。しかし、今はSさんでさえ、彼女の決断を頭から否定しない。事態がそうさせていることが、Sさんのある種の沈黙から読み取れる。

彼女を送り出した親御さんはどうなのだろう。Sちゃんの父は退役軍人である。Sちゃんが反体制デモに行くことを怒っていたという。しかし、今回、彼はどのようにして彼女を送り出したのだろうか。

お父さんたちの時代はずっと黙ってた。私たちまでで黙りはおしまいなのよ。2月に奈々子が会ったとき、彼女はそう言っていたらしい。

自分の娘の決断が、もし、このようなものにならざるを得ないとき、私は何を考えるだろうか。

今は、彼女の無事を祈るしかない。

2012-07-01

何処へ


先日、友人の女医、Sさんと2日続けてチャットできた。最初の日は、彼女の娘、Gちゃんが今夜パリに発つ、という日だった。夜中の2時の飛行機だけど、空港までが危ないわ、と心配していた。

次の日に聞くと、無事に旅立ったと言う。「これで彼女はとりあえず安全なところにいることになったわ」と安堵しているようだった。

でも、彼女を送っていった夜中は、近くの村を攻撃するロケット砲の光がよく見えたわ、と言っていた。音も結構だったから、なんとなく眠れなかったと。

そして、「私たち、移住することを考えているの」という。え?フランスに?と聞くと、娘と息子はフランスに、私たち夫婦はトルコに行こうと思っているのだと。「子どもたちはまだ将来があるし、そういう意味では、フランスにはとりあえずツテもあるし」

「私たち夫婦はフランスで、何が出来るわけでもないし」と続ける。でも、トルコに行くと、医者を続けることは出来ない、とも。

じゃあ、何をして生きていくわけ?と聞くと、「まずは、トルコ語でもマスターするわ。ま、そうは言っても、まだ決定したわけじゃないのよ」

彼らには、他の家庭よりは余裕がある、だからこそそんなことも考えるのかもしれないが、家族一緒にフランスで暮らすのは、やはり負担が大きすぎるのだろう。また、トルコであれば、近い。家のこともそれなりに気になるだろうし、帰ろうと思えば、すぐに帰れなくもない、そんな勘定もあるのかもしれない。しかし、問題は、彼女らまでが、国を離れることを考え始めているということだ。

ついこの前、夫の弟で、警察官をしているMが家族と一緒にトルコへ「逃げた」と聞いた。彼に関しては、「政府側」と見られ、身の危険を感じ出したという背景がある。

この話しをしてくれた夫の娘Oは、もう一生おじさんに会えないかもしれないと泣きそうだった。捕まった従兄弟達もまだ戻ってきていない。

教え子のことも気になる。エブラ語をやっているAにメッセージを残しておいたら、返事が来ていた。なんと、彼ら家族は再び、アリーハ(イドリブ)に戻ったらしい。やはりアレッポでは家賃の支払いなどが大変だったのだろう。しかもアレッポも近頃安全なわけではない。だけど、イドリブよりはましだろうに。

彼は書いていた。「パンを買いに行くにも命がけです。毎日死者のでない日はない。街のそこら中がめちゃくちゃになって、そこら中で銃や爆発音が聞こえます。だけど、他に選択の余地はないので、自宅に戻りました。神様に祈っていてください」と。

胸のつまるような思いがした。

このメッセージを読んだあと、旅行代理店のJさんからスカイプ・コールが来た。他の家は、ネットの具合が悪くて、チャット以外はほとんど出来ないが、彼のところは、商売柄、常にボイス・コールが出来るようだ。

彼に、女医Sさんの話をしたら、「ああ、その話なら知ってるよ。だって、彼女僕のところで娘さんのチケット買ったんだから。そのとき、そんな話もしてたね」と言ってくれた。

あなたはどうするの?と言うと、「僕は勿論残るよ。勿論仕事もあるけど、それ以上に僕はこの社会に存在するという責任がある。みんな事情があって外に出て行く、それは仕方がないけど、みんないなくなったら、シリアの社会がなくなるじゃないか。僕の場合は、ここにいるということが、今のご時世、僕のシリアに対する責任だと思ってるんだ。だけど、出て行く人を非難はしないよ。彼らなりの十分な理由がありすぎる。みんな好きで出て行くわけじゃない。」

「1965年以降、シリアの社会は、ゆがめられてきた。この年号の意味するところ、わかるだろ。あれ以来僕らは疑心暗鬼で生きるようになった。勿論、それ以前と変らない部分もあったわけだけど、社会の隅々がゆがみ始めた。「疑う」ことでね。我々の間に不信を植え付けた(政府の)責任は重大だ。僕は65年以前を知っているが故に、それをより強く感じる。」

「でも、僕たちはそれなりにやってきた。そして、今。出て行かざるを得ない人は、そうするより他ないんだ。これが、この40年間の一つの結論なのかもしれない。」

彼も、何か吐き出したかったのか、いつもより饒舌だった。スカイプでこんなこと言っていいのかしら、とも思ったけど、彼は関知していないようだった。

そして、「きのう、刑事警察のとこ、ほらここから100メートルのところで結構な爆破事件があって、クリスチャンのおばあさんが亡くなった。かわいそうに。だけど、アレは、その前後のことから考えて、やらせだね。はっきりしてるよ。」と。

アレッポの20世紀前半のことを知りたかったら、これこれという本を読めばいい、と数冊の本の題名を私に教えてくれ、いつになく長いスカイプ・コールを終えた。

2012-06-23

自暴自棄


ラタキアにいる友人に、先週激しい攻撃があったというハッフェの街のことを聞いてみた。この数日静かだというので、なぜだろうと思うと、もうほとんど誰も町に残っていないからだという。

町を逃げるときに置いてきぼりを食った、足腰の立たないような老人たちのみが残っているようだと。逃げるときには、彼らうをつれていくような余裕が全くなかったらしい。

残ったその老人たちはどうするのだろう、と聞く間もなく、シリア軍、ロシア軍、中国軍、イラン軍が共同軍事演習をするというニュースを見たか?と彼が聞いてきた。

確か、ネットでそのような記事を読んだが、シリアとロシアは報道を否定していたような気がするがというと、彼は続けた。でももしほんとにそうなったら非常に危険だ。何が危険かって言って、ロシアとか中国が危険なんだ、という。

今、家族を失い、将来を絶望している人たちが増え続けている。その人たちは、もう何も怖くない。ロシアや中国に何かを仕掛ける可能性だってある。当地の共感者を使って、騒動を起こすこともありえる。そうならないことを望むけど、そういう極めて悲観的な可能性だってあるんだ、と。

現実的ではないのかもしれないが、そこまで追い詰められている人が出てきているのは確かなのだろう。

この前は、夫の甥っ子二人が仕事から帰る途中に連れ去られたと聞いた。もう一週間ほど前になる。今日はハムドゥが久しぶりにオンラインにいたので、その後どうなったかを聞いてみた。誰に連れ去られたのかも、そのときはわからなかったので、それも確かめたかった。

ああ、あの二人?と、ハムドゥは私が知っているのにびっくりした様子だった。そして、まだ刑務所にいるらしい、と答えた。

「刑務所!刑務所って!?」ユーチューブや他の忌わしい映像が、一瞬頭に浮かぶ。

「ああ、でも、こんなのはもう普通だよ。まだいいほうだ」と続ける。刑務所拘置が普通?いいほう?

そして、いつもは楽天的な答えをする彼が、いつになくこう書いてきた。「今日は、僕だってこうやってヤヨイと会話してるけど、明日になったら死んでるかも知れないからな。」なにを言ってるのよ、と返事をしようと思ったら、「ほんとになにがいつどこで起こるかわからなくなった。正直なところ、これが現実なんだ」と。

こんな調子のハムドゥは初めてだ。いつも、鷹揚に構えていた彼の口からこんなことを聞くとは。

アレッポ北部近郊の村々では、毎日砲撃があり、かなり壊滅的になっているという。ハムドゥの村、すなわち夫の眠っている村からも程遠くない。

夫の耳にも、砲撃の音が近づいているのが聞こえているのだろうか。

2012-06-14

シリアの6月


私が初めてシリアに降り立ったのは1989年の6月16日の夕方だった。飛行機から出た瞬間、「暑い国」という先入観に反して、心地よい涼しい風を感じ、えらく驚いたのを今でもはっきり覚えている。

その後、かなり厳しい昼間の気温を実感することにはなったが、夕方にはたいてい涼しい風が吹き、昼間の暑さを忘れさせてくれた。シリアの6月は、一年の中で私の一番好きな月である。

シリアの6月は何と言ってもさくらんぼ。甘酸っぱいさくらんぼをキロ単位で買い、天水で育てた太短い、味の濃いきゅうりと一緒に大きな皿に山いっぱい盛る。6月も中旬を過ぎるとそれに杏が加わるが、これもナマで食べてよし、ジャムにしてもよし。

杏ジャムは、シリアでは天日で作る。6月も末になると、そこらじゅうの家のベランダに、杏の入った、ガーゼで覆いをした大きな盥が「展開」する。10日から2週間くらい、たまに混ぜながらジャムとして熟成するのを待つのである。

果物だけではなく、6月にはいろいろ素敵な出会いもたくさんあった。たとえば、この時期には、例年、フランスのウガリト文書解読チームがアレッポ博物館に2週間ばかり滞在し、博物館所蔵の粘土板文書を研究する。

チーム代表のデニス・パールディーと夫が親しかったことから、よくチームを家に招き、食事をしたり、研究の成果などを聞いたりしたものだった。6月生まれの奈々子の誕生日を彼らと一緒に祝ったこともある。最高の誕生日だった。

彼らはアレッポでの研究が終わると、ウガリト遺跡の発掘に参加するために、地中海沿岸の町、ラタキアへと向かう。勿論彼らだけではない。シリア人の中でも、期末試験の終わる6月から、子どもたちをつれてラタキアへ向かう家族は少なくない。港町特有の解放感もあることから、夏のラタキアは人気スポットであった。

しかし、今、他の発掘隊と同様、ウガリト発掘隊も現地調査を昨年来停止している。アレッポ博物館での研究も中断されたままだ。

ラタキアでの開放感はもう今では遠い昔のようだ、とラタキアにいる友人が先日メッセージを送ってきた。街での治安取締りの厳しさは増しているらしい。そして、なんだか、近々、物騒なことになりそうなんだ、と言う。そしてその予感は、不幸にも当たってしまった。

メッセージを受け取った次の日のニュースで、ラタキアにほど近いハッフェの街が包囲されているということを知った。日本時間の昼前、シリア時間ではまだ夜の明けていない時間にその友人がオンラインにいて、私がPCをあけた瞬間にメッセージを送ってきた。

何か凄まじいことがハッフェで起こっているが、地元のものにも詳細はわからない。友人と同姓同名の人物が死亡したといううわさを聞き、人違いとわかったものの気が気ではなく、一睡も出来ず、こんな時間にPCの前に座ってるんだ、という。

古代には、エジプトとヒッタイトにはさまれながら、これらの二大強国をしたたかに「いなす」という知恵をもち、繁栄を保ったウガリト王国。そのウガリトを擁したシリアが、それから3000年以上を経た今、内部の抗争への解決手段を見出せないでいるのだ。

2012-06-05

二つの追悼式


6月4日と6月6日に、ダマスカスとアレッポで、夫の追悼式典が行われる。5月の頭にこのニュースが来たとき、今の状態では行けないなあと思っていた。

皆が集って、夫を偲んでくれる場にいられないのは、寂しかったが、それもいたし方ないと思っていた。会にはメッセージを書き送って、読み上げてもらおうと思っていた。

最初の予定では、両方が5月30日に行われる予定だったが、5月27日ころにFBを開けたら、ダマスカスの会が6月4日に変更になっていた。そして、ほぼ同時にアレッポの分も、6月6日に延期されたことを知った。

ここで、心が動いた。まだ、間に合う。行きたい。行かなければ。行こう。熱に浮かされたようになった。

確かに、今、私が行かなくても、誰もなんとも言わない。ハミードさんは帰って来はしない。今は非常事態なのだ。私が行くことで、シリアの友人に迷惑がかかることもありうる。そういう意味では気違い沙汰だ。

こんな想いが頭の中で渦巻いた。そんなときに、ハミードさんが学生に囲まれてピースしている写真を見てしまった。あのピースは彼の「思い」であり、私の「思い」だったことを思い出した。そして行動にでてしまった。何も言い訳できない。

今は考古学どころじゃない。でも、シリアの彼らに未来は来ないのか?未来に投資しようとした私たちは、今すぐのご利益ではなく、未来にかけたではないか?それを示したい。自己満足かもしれない。

そんな思いを抱きつつも、在京のシリア大使館に行き、ビザを申請したのが5月30日。その帰り道に大使館からの電話があり、翌日の木曜にとりに来るよう言われたので、6月2日のフライトを予約した。その夕方のニュースで、シリアのホウラで起こった虐殺への抗議意思表明として、日本がシリアの在日外交官の国外追放を決めたことを知った。しかし、ビザは翌日受け取ることが出来た。

ダマスカスでの動き方、アレッポへの移動等、シリアの友人を通してばたばたと行った。このようなことは普通、アレッポ旅行代理店のJに頼むが、この数日彼はオンラインにいない。おそらく国外出張なのだろう。メッセージはとりあえず残しておいたが、時間もなく、仕方がないので、他の数人の友人と連絡を行って、アレンジをどうにか終えた。

日本人の友人にも、話しを聞いてもらった。自分でもこの決断が怖かったので、背中をもう一押ししてほしかったのもある。

そして、1日の夜中2時ごろ、このブログの前半を書き終えたとき、代理店のJからスカイプ・コールがあった。彼はウィーンに出張していたが、アレッポの彼の息子との電話を終えたところだという。

「メッセージは見た。だけど、今回はシリアに来るのはよしたほうがいい。今の今、息子と話したけど、政府側がアレッポだけでも2000人規模を動員して、弾圧に当たっているらしい。息子は今、事務所を閉めて帰る道で、政府側が無差別に発砲しているのを見たと言っていた。政府は今、やけっぱちになってるんだ。何が起こるか、本当に本当にわからない。」

ダマスカスは?と聞くと、「ダマスカスはアレッポよりマシだけど、アレッポが今蜂起した以上、ダマスカスにも飛び火する可能性は大きい。」

「やめたほうがいい。あなたのご主人への追悼の気持ちはわかる。だけど、彼だってあなたを危険な目にあわせたいとは思わないよ。」彼の声は緊迫していた。

しばらく沈黙したが、「ありがとう。中止します。」のどもとにある、熱いものを飲みこんで、そう伝えた。

2012-05-25

資料集め


以前にも話題に出したベルギーに留学しているSは、博士論文を「シリアの青銅器の修復」で書くという。先日、チャットをしたときに、論文の章立てを書いて送ってくれた。なかなかしっかりした章立てで、「これじゃ、もう大学の時みたいに、からかえないなあ」と褒めてやった。彼はまんざらではなさそうだったが、「でも、先生問題は今シリアで、資料集めとか、たぶん出来る状況じゃないんだ。」と、本音を言った。

アレッポ大学で教え始めたとき、主人は、まずは「学生を連れて遺跡へ」行くことをこまめにした。みんな遠足気分で、特に春の遺跡は素晴らしかった。

手近なところでは、エブラ、海岸沿いではウガリト、ジャズィーラ(シリア北東部)では、マリ、テル・ブラク・・・などの有名どころは勿論一緒に行ったし、また調査中の遺跡に行くと、発掘者から直接話を聞けることから、学生も非常に興奮した。
 
アレッポ大学の考古学科は2002年に出来たばかりで、用具も、図書も、その他の組織もまだしっかり出来ていなかった。したがって、非常にやりにくいことはたくさんあったが、何より我々は遺跡に行こうと思えば、いつでも行けるという強みがあった。それだけでも、天国じゃない、と学生たちによく言ったものだ。

シリアでの遺跡の調査は外国隊が主流を占めるが、あんたたちの国の遺跡なんだから、今にあんたたちが主流になってね、とも。

そのうち、シリアにいる外国隊に学生を送り込む手はずを整えることが出来、何人かは、発掘隊で「修行」をした。ビザも何もいらない。私たちの国の遺跡なんだもの。そんな感じで、学生たちは、自国の遺跡を楽しみ始めたようだった。

あれから十年。今、シリア人の彼らが、自由に遺跡に行き、自由に遺物を見ることが出来ない状況になってきている。Sは反体制を掲げているからなおさらかもしれない。

しかし、今、たとえば博物館展示遺物は、非常時を想定して、かなりの部分を収蔵庫に入れてしまっていたりしているようであるし、以前のように、好きなときに遺跡に行ける雰囲気ではなくなってしまっている。

今、研究生をやっている女学生Dは、シリアでは勉強が難しいからせめてレバノンへ行きたいといっている。彼女は、チャルカス人(サルキシアン)で、ロシア国籍もあるから、外にでるには他のシリア人よりも簡単だ、という。しかし、いずれにしても、シリアを主題にして、それをレバノンでやるのだと。

遺跡は前と同じように存在するのに、この喪失感は何なのだろうか。

2012-05-17

集団埋葬


数年前にシリア北東部のテル・ブラクという遺跡で、5800年前の集団埋葬が見つかった。見つかった人骨は、頭骨のないもの、腕のないもの、さまざまであった。年のころは、十代後半から三十代にかけての壮年男性ものであり、おそらく集団間の戦いの結果死んだ兵士たちであろうとされている。

考古学をするものにとって、これは都市形成期の集団間の闘争という、非常に興味深いテーマを示してくれる。なぜ、集団の間に争いが生まれたのか、そしてそれが「人類史」の中で、どのような意味を持つのか、その背景の社会構造はいかなるものか。

そんなことを、私たちは考察する。そして、断片から当時を復元する。

そして、今。現代のシリア。

ユーチューブに投稿されたビデオは、半分以上の男性が死んだ村の、集団埋葬の様子を伝える。長い濠のような穴に、次々に白い布に包まれた男たちの遺体が運び込まれるのが映し出されている。生き残った男たちが、埋葬を済ますべく、動き回っている。

数千年の時空を超えて、やはり、同じように集団で葬られる人たちがいる。しかし、今、私たちは、それを分析はしない。背景を「復元」をしたりもしない。

ただ、この殺戮のあとに来るものを恐れている。恐れが、悲しみに変り、次には憎しみに変ることを。

「クラスメートだったヤツが、体制派だったら、もし平和になっても、しこりが残るよなあ。前みたいに平気で付き合えないよなあ、正直・・・。」と、反体制派を自称するSは、悲しげに言っていた。「もし、この闘争が終わっても、きっともとのシリアみたいじゃなくなるかもしれない、それがすごく怖い。」と。

大学にいたころ、実測練習用に、Sたちと大学の空き地に即席で「墓穴」を掘り、グループで実測をさせたことがあった。サボる学生、黙々と図を描く学生、他の学生の手助けをする学生・・・。

だけど、その中に、それなりのチームワークがあった。ムスリムだとか、クリスチャンだとか、アラブ人だとか、クルド人だとか、アルメニア人だとか・・・そんなことは、あのフィールドワークのまねごとには関係なかった。

あの即席の「墓穴」が今となっては、奇妙に象徴的に思い出される。

2012-05-10

手紙


いまさらながら思うのだが、今年の二月のシリア行きは、つらい里帰りだった。

シリアは今まで、私たち母子にとって、「行く」所ではなく、「帰る」ところだった。しかし、今、状況は簡単に「帰る」ことを許さない。

娘の奈々子にとっても、つらい「帰国」だったであろう。夫の葬儀が終わったあと何日かして、彼女は高校時代の友達Sちゃんに会いに行くことになった。悲しい出来事があった後とは言え、久しぶりの再会である。うれしげにGちゃんと連れ立って家を出て行った。

Sちゃんは、両親とともにアレッポに住んでいるが、もともとホムスの出身である。両親の実家はホムスにあるし、親戚もたくさんホムスに住んでいる。

ホムスの惨状は、誰にでも普通に伝わって来てはいるが、Sちゃんは、ホムス出身と言う背景もあり、間接、直接に「忌まわしい」事故の話が他の人よりも、生々しく伝わってきているようだ。

今回の騒乱で、ホムスは最も激しい抵抗運動を続けているが、アレッポに住む彼女自体も反政府のデモに出かけたり、集会に行ったりしている。彼女の父親は退役したが、もともと軍人である。娘のそのような行動を好ましく思っていないが、同時に、彼女の身を案じてもいる。

奈々子たちの久しぶりの再会も、彼女の最近の反政府活動や、ホムスで起こっている極めて具体的な、生々しい闘争に関する話や、市民の苦しい日常生活の話で占められた。奈々子も、少なからず、Sちゃんの話に衝撃を受けたようであった。

つい一昨年の夏には、彼女ら仲良しグループは、ささやかな卒業旅行で、ベイルートまで遊びに行った。ホムスを経由して、ベイルートへ行き、帰りはホムスのSちゃん一家の実家に泊まって、笑いさざめいていた。

そのときの話題は他愛もないものであったに違いない。その彼女らが、今は、日常茶飯事になってしまった殺戮について、そして反政府運動について話している。

日本に行く私たちに、Sちゃんはホムスの現状を伝えるメッセージを送るね、と言ってくれた。そして、実際、手始めに数枚のメッセージを奈々子に託してくれたらしい。

数日後ダマスカスで、日本に「行く」飛行機に乗り込んだ際、奈々子が、「お母さん、これ」と、彼女が暇つぶしに読もうと思っていた本から、紙切れを取り出した。Sちゃんからの手紙だった。よくチェックに引っかからなかったものだ。これには、生ナマしいホムスの様子が書かれているのだ。

奈々子は、再び手紙を本の中に挟みこんだ。

窓から、シリアの褐色の大地がどんどん遠ざかって行くのが見えた。

2012-05-03

紛争の長期化ということ


シリアでの抗議行動が始まってからおよそ14ヶ月が経つ。昨年の3月末にダマスカスで聞いた声は「シリア人は分別を持っている。下手な行動は起こさない」というものだった。あの時はみんな落ち着いていた。

春が過ぎ、夏が来て、秋、冬・・・状況は悪化し、そして二度目の春も半ば以上を過ぎて、まだ出口は見えない。

一口に1年だ、14ヶ月だと時間の長さをいうのはたやすい。しかし、友人との話しのなかに、確実に「だけど」という逆接の接続詞が増えてきた。「元気?」と聞けば、「元気」だとか「まあまあね」と言った答えが返ってくるが、今はそれに「だけど・・」という一節が加わる。

「今年は冬の雨が多かったから、草花が咲き乱れて・・・」と伝えてきてくれた友人も、「だけど、それでも気が晴れない。こんなにたくさんの人が死んでいて」と続ける。

心配する私に「何とかやってるよ」という友人。「心配しないで。」と言いつつ、「今のところ、私の周りでは何もないわ」と言う。

そうなのだ。今、彼らにわかるのは、自分の周りはとりあえず、何とかなっていると言うことなのである。それ以上のことに、何をコメントすればいいのだ、という彼らの気持ちは、何も言わなくても伝わってくる。

娘の友人のGちゃんは、フランスでの医学部のディプロム第1次試験に受かって、第2次試験に向けて勉強中だという。「まあ、いいニュースでしょ?」と言うので、「もちろん、そりゃそうじゃない」と返事をしたが、彼女はそれほど喜んでいる風ではない。

昨年彼女がフランスで勉強をしていたときも、「シリアのことが心配で、フランスにずっといたいわけじゃないわ」と言っていた。今回、もし第2次試験に受かっても、状況がこのままなら彼女は喜んでフランスへ行く気にはなれないだろう。

彼女の両親は、彼女の将来を思って外に出したいのだろうが、出す側も出る側も、重いものを胸のうちに抱えたまま、になってしまうのだろう。

「将来」の話が、彼らと出来ないし、するのをためらってしまう。これが、長期化ということの一側面なのだ。なんと、得体の知れない、実体のない、しかしヒトを傷つけるものなのだろう。

だけど、それでも、彼らの話しのそこここに、前に進みたい気持ちがにじんでいる。

今、私に出来るのは、今日は元気?という挨拶だけなのだろうか。

2012-04-29

考古学とシリア危機


アレッポ大学時代の教え子のうち、少なくとも10人以上が今、ヨーロッパの大学の修士や博士課程で勉強している。

ベルギーで金属器の修復に関して勉強をしているSもその一人だ。先日、私をフェースブックで見つけたらしく、連絡をしてきてくれた。

修士論文はすでに出し、今度は博士課程に進むと言う。博士論文の題目が決まらないから、相談に乗ってくれと言うので、出来る範囲内で、と交信を始めた。

彼は、大学入学当時からやんちゃ坊主的キャラクターを発揮していたが、そんなに出来る学生とは私も夫も思っていなかった。しかし、最初の試験で、他をかなりはなしてダントツの成績一位をとってしまった。

たまに生意気な口もきくので、夫はタマにキレていたが、行動力もあり、何より考古学を楽しんでいた。3年前に奨学金をもらうことになり、ベルギーに国費留学したが、その後、通信が途絶えていた。

昨年の夏ごろ、夫と話したとき「Sが近頃、外国在住の反政府派ってことでテレビのインタビューに何回か出てたぞ。」と言ったことがある。えー?でも彼ならありそうだよね、と言いつつ、私は彼が面倒に巻き込まれなければいいけど、と思ったものである。

そのSと昨日スカイプで長話をした。博士論文の話も勿論したが、最後にはやはり、今のシリア情勢の話になる。しかも彼はいわゆる「活動家」を自負しているのである。全部は言わないが、かなりいろいろなことを把握しているようであった。

つかまっている友人のことや、いろいろな話をしたが、そのあと彼は「先生、今僕が一番心配なのは考古遺物の盗難や流出なんだ。勿論、人命保護とか、難民の問題とか、そういうことが優先順位が高いのはわかっているけど。昨日もダラアにいる友達が、それらしき(盗難の)場面を見た、と言ってた。」と言う。

私も同感であるし、それこそ、考古学を曲がりなりにも勉強し、教えてきたものとして、ネットの報道などで遺跡破壊などの記事を見ては、呆然としているしかないのが歯がゆい。実際イラクで起きたようなことが起こらぬとも限らない。ただ、何をすればいいのか。

彼にしても同様である。ただ、彼には通信網があるようで、部分的にではあっても、何が起こったかを知ることはできるようだ。そして、もしそういう情報がはいったら、国際機関に訴えたりするようなことを手伝ってほしい、と言うのである。

思えば、イラク戦争のときも、バグダード陥落の前に、夫と知り合いに遺産保護を訴えるメールを送ったことがある。

Sとの話は、夫の遺志を再認識させてくれた。

2012-04-26

アズィズィーエの一角で


アレッポで、航空券やその他旅行の手配をするときは、20年来友人のJの代理店でやってもらっている。アズィズィーエという、アレッポでも一番の繁華街に店を構え、シリアのこの業界の中でも最も信用の置ける代理店の一つである。従業員は7-8人で、ほとんどがクリスチャンであるが、彼はムスリムである。

この2月にフライト変更手続きに行ったときは、シリアへの制裁の関係でいろいろ面倒なことが多かったが、それをいやな顔一つせずにやってくれた。一番大変だったのは、ダマスカスに代理店のある航空会社への変更料金の支払いである。

クレジットカードも使えない状況になっており、ドル現金をダマスカスに送るわけにもいかず、彼がとってくれた手段は、彼の店と取引のあるダマスカスの店で、ドルの「ツケ」のあるところを探して、その店のヒトに航空会社までドルを届けてもらうと言うものだった。

この操作をしていると、発券までにちょっと時間がかかりそうだ、と彼がすまなそうに言った。いいお天気の日で、「危険」と言われた町歩きも、ここならばそれほどでもないだろうと思い、私と娘でアズィズィーエを久しぶりに歩いてみることにした。

外にでて、アレッポの中ではしゃれた店がある一角を少し歩いたが、ここでもかなり店が閉まっている。レストランも一部店じまいをしている。ただ、ホブズを売るベーカリーのところだけが、いつものような人だかりがあった。焼きたてのホブズのこうばしい匂いだけが、アレッポにいることを実感させてくれるようだった。

さらに歩いて、Mango(洋品店の名)の前に出た。つい数ヶ月前まで、素敵なショーウィンドーを誇っていたこの店も、今は中ががらんどうになっていた。

若干意気消沈しかけたが、奈々子が、このすぐ先に、おいしいサンドイッチ屋があるよね、と言ったので、気を取り直してサンドイッチを食べることにした。

普段なら、ひっきりなしに客の来るサンドイッチスタンドだが、今日は私たちしかいない。時間も12時を過ぎているのに。

レバーのサンドイッチと、飲み物を二つずつ頼み、店の前で食べる。このサンドイッチとジュース二人分の合計は日本円にして約300円である。日本の感覚からすれば、ずいぶん安いのだが、以前の価格からすると、かなり値上がりをしている。

飲み物の封を開けるのにてこずっていたら、店の前に椅子を出して座っていたアルメニア人と思われるオヤジさんが「かしなよ」と言って開けてくれた。シリアではこんなやり取りは、極めて当たり前である。だけどこのときは、このなんでもない気使いがやけに心に浸みた。

2012-04-24

コンピューターの便利屋


夫の弔問の期間が終わったあとも、「出遅れた」友人が何人か、家に来た。「正式」な弔問の際は、男女別だったこともあり、男性の友人と話が出来なかった。しかし、この遅ればせの人たちの中には、私もよく知ってる友人が混じっていたので、彼らとは、かえってゆっくりと話しをすることが出来た。その中に、コンピューターの便利屋のようなことをしているSもいた。

夫は、根っからのアナログ人間で、書き物をいまだに、全て、手書きでやっていた。教え子のA は自分の勉強になるからと、一部その手書きの原稿を、タイプしてくれていたが、夫は相当書き溜めていたので、とてもおっつくものではなかった。

あるとき、「やっぱりこれは全部タイプしておかないとなあ。」と言って、コンピューターの便利屋、Sを連れてきた。アレッポには、とても近代的とはいえない街区もまだ残っているが、そこに小さな店を構えて商売をしている男性であると言うことであった。

コンピューターやインターネットは近年シリアでも必需品になりつつあるが、このような機械とは無縁の生活をしている層もまだ多く、その人たちのために、タイピングをしたり、メールサービスをしたり、コンピューターの修理や調整をしている店が結構ある。彼の店はそんな店の一つらしい。

Sは、前に一度政治犯として捕まったことがあるような経歴だと言うことで、夫が言うのには、「そういう輩は、本をとりあえず読んでいるから、アラビア語の間違いが少ない。だから、タイピングでも、妙な間違いが少ないはずだ。」と言うことで、彼を選んだようである。

夫はまずは、「アッシリア王碑文」のタイピングを頼んだ。元から相当な量で、タイピングだけでもかなり時間がかかり、さらに専門用語も多かったので、見直しやらなにやらで、さらに時間を食った。結構な仕事量だったが、ようやくメドがたった。

あるとき、アレはどうなったのかと夫に聞いてみた。夫は、若干不機嫌にSが逃げた、と言った。え、どういうこと?と聞くと、なんでも、治安当局に追われて店を閉めて、消えたらしいと言う。え、じゃあ、あの原稿のコピーは?と聞くと、何回か前の校正のCDはあると言っていたが、最終版ではないようだった。

その後、夫にその話しをすると不機嫌になるので、ずっと、うっちゃっておいた。

昨年の夏ごろであったろうか。夫と話したとき、Sが捕まった、と聞いた。「あいつは、もとから捕まりそうな言動をしてたからな。」と言っていたが、詳細はわからなかった。

そのSが、弔問にやってきた。元からやせた人だったが、さらに痩せて、前より白髪が大幅に増えている。天気の良い冬の日だったので、ベランダに椅子を持ち出して、話をした。

ポツリ、ポツリと夫の思い出話をしながら、「政治犯」の彼が「アッシリア王碑文」だとか「アッシュル・ナシルバル」などという名前を口にする。「ハミード先生に会わなかったら、こんな昔の王様の名前なんかに一生付き合うことなかったな。」と遠くを見ながら言う。でも、タイプしながら、面白かったよ、と。

冬の日を浴びて、Sの顔はやけに白く見えた。

どういう風に捕まったの、と聞いたら、ある日、治安の人間が店にやってきて、コンピューターも何もかも、ぶち壊して、俺を引きずっていったんだ、という。「その後は、毎日刑務所の地下で、朝夕「鞭打ち」の定食を食らってたんだ。半年以上かな。」「でも、主義主張、変えたわけじゃないんだぜ。」と力なく笑った。

気になっていた夫の「アッシリア王碑文」の最終版のことを聞くと、「コンピューターは壊されたし、CDもめちゃくちゃにされたけど、ちゃんとコピーが別の場所にとってあるよ。」と言ってくれた。すこし、ほっとした。

そこに、彼の小さな息子が呼びに来た。よければ、残った分もタイプするから、と本棚のほうを見やりながら、そう言い残してSは帰っていった。

本棚には、手書き原稿のつまった二つのダンボール箱と数個のかばんが、前と同じ位置に今もある。

2012-04-18

アフマド・ムスタファ


アフマド・ムスタファはシリアの中でも最も古い友人の一人だろう。彼は、トルコ国境に近いユーフラテス川沿いの、小さな村、テル・アバルの住人である。

テル・アバルの村には、夫と私が発掘をした、紀元前6千年紀から4千年紀にかけての遺跡があった。「あった」と過去形で書いたのは、今は遺跡の大半が、ダム湖に沈んでしまったためである。

1989年、彼がまだ12-3歳のころ、私たちはこの遺跡の発掘を始めた。シリア隊の貧乏発掘で、村の少年たちを雇って掘っていたところ、ちじれっ毛の、細っこい男の子が、やはり雇ってほしい、と来た。アフマド・ムスタファだった。やらせてみたが、あまり力もなく、即刻クビにしてしまった。

次の年の発掘が始まったとき、彼はまたやって来た。前の年よりも背がかなり伸びていて、少したくましくなったようだった。再び、彼の「力量」のテストをした。今回は合格だった。

それ以来彼は毎年発掘に参加し、毎年「腕前」も上がり、背も伸びた。最終シーズンの1993年には、ほぼ人夫頭のような仕事振りであった。専門知識があるわけではないが、遺跡や遺物に非常に興味を持ち、楽しみながら仕事をしていた。

我々の発掘は終わってしまったが、彼は発掘の仕事が好きでたまらず、次の年からは、隣村(テル・アフマル)のベルギー隊の発掘に雇ってもらい、さらには、別の村のイタリア隊で働くことになった。

現金収入の少ないシリアの僻地の村であるから、発掘隊の人夫になるには、結構「競争率」が高いので、彼はわざわざアレッポの私たちのところまで、外国隊への推薦状を書いてもらいに来たことがある。

彼は、イタリア隊で働き出してから、10年近くになり、片言のイタリア語もしゃべることが出来るようになった。そして、結婚し、子どもも出来た。小銭も少し出来たのか、牛を買い足し、村で暮らすにはまあまあの収入もあるようになってきた。

コンピューターも買ったという。いつか、デジカメを買うから、店に連れて行ってほしい、と私のところに来たことがある。子どもの写真を撮るの?と聞いたら、それはそうだけど、遺跡の写真も撮るのだという。思わず笑ってしまったが、彼は悪びれず、だって、遺跡ってすごくいいもんだよ、と言った。

しかし、彼の言葉に、いまさらながらに気付かされた。これが、学問以前に遺跡で働くものに必要な感情なのだ。

彼は、歴史を語るわけでもなければ、博士論文のために遺跡を掘っているわけではない。しかし、掘る作業を通して、「好き」になってしまったのだ。そして、アレッポに来るたびに、近辺の村の考古事情を話してくれた。どこそこの村には、こういう感じの土器がいっぱい落ちているところがある、だの、どうも・・村の墓は盗掘されたあとがあるみたいだの、と。

彼の情報は、それなりに貴重だった。テル・アバルの村で、ダム湖の波に洗われて新石器時代の遺跡があることがわかったのも、彼の一報がもとだった。

その彼が、夫の葬儀の数日後にやって来た。夫の家の戸口のところに、真っ赤に目を泣き腫らした彼がうずくまっていた。二人で、夫の突然の逝去を再び嘆いたが、ふと、この状況でよくあの田舎からアレッポまで来ることが出来たものだと思い、道々どうだったかと聞くと、道中は検問が厳しい以外は、何でもないと言う。

「だけど」とかれは続けた。「僕の村も、隣村も、イタリア隊の発掘していた村も、毎日のように、殉教した兵士が運ばれてきて・・・近頃、葬式がやけに増えたよ。」

考古学の発掘をやっていたときは、墓を歴史のために掘っていたが、今、村の住民は、自分たちの子息の墓を掘ることを余儀なくされている。

2012-04-15

早い春の一日


帰国を早めるため、友人の旅行代理店に行った日は、抜けるような青い空の広がる冬の一日だった。

教え子のWが、「車を使うのであればいつでも連絡して」と言ってくれた言葉に甘えて、迎えに来てもらい、旅行代理店へと向かった。

冬の透明な日の光が車に差し込んでいる。数年前のちょうどこの時期に、サンシモン遺跡に行ったときも、こんなシンと澄んだ日だったことを思い出し、Wに、「あの時、みんなで、サンシモンに行ったのも、こんな日差しの日だったよね。」というと、彼も思い出してくれた。

当時ヨルダン勤務だった私が、休暇をとって帰ってきたとき、夫が、朝起きていきなり、「いい天気だ。サンシモンに行こう。学生を連れて行って、みんなでバーベキューしよう。」と言い出した。まだ寒いんじゃないの、と思ったが、学生に連絡すると、「せっかくヤヨイ先生が帰ってきてるんだから、行きたい。」と言ってくれた。

12人ほど集まり、ポンコツのセルビスカー(シリアの乗り合いミニバス)をどこからともなく調達し、途中のデールト・アッゼの町で肉と野菜とホブズ(平たい、シリアでは主食のパン)、ヨーグルトを買い、サンシモン教会跡近くについた。この一帯は、ビザンチン時代の教会跡、宿場跡が石灰岩地帯に延々と広がっている「死せる町々」と呼ばれる地域である。

夫は「サンシモンじゃなくて、この下の、教会跡が絶好のバーベキュー・スポットなんだ」と言う。くずおれた教会の壁がうまく風をさえぎって、バーベキューの火をおこすのにちょうどいいという。

考古学者にあるまじき遺跡の乱用だね、と冗談を言いながら、そのバーベキュー・スポットとやらに赴き、学生は「原始炉」の設営を始めた。

私と夫は、「先生」の特権で、「原始炉」が出来るまでの間、そのあたりを散策した。近くは、ごろごろとある石灰岩を丹念に除き、農地にした場所である。この地方特有の赤い土に、冬の雨をうけて萌え出した雑草が這っている。その中に、クロッカスの類だろうか、山吹色の小さな花をつけている草があった。

春にはまだ早いのに、けなげに、しかし凛と花を咲かせている。背景の赤土が、つやつやとした山吹色をより際立たせている。じんとくるほど綺麗だった。花の横に、夫の影があった。

ふと我に返ると、旅行代理店の前に来ていた。中に入ると、友人が、変らない暖かい笑顔で迎えてくれた。彼の笑顔と、この日差しが、私の知っているシリアそのものなのだ。

2012-04-11

大学での抵抗運動


アレッポが全体にまだ平穏だったころも、アレッポ大学内では、学生と治安要員たちとの衝突があることは聞いていた。

私が2月にアレッポに行ったときも、工学部に通うSさんの息子Hが、そのころ工学部で起こっていた衝突や、事件に関して話してくれていた。大学に行ったら、研究室のドアや窓が壊されていたこと、学生がバリケードを張り、治安側とやりあったこと。催涙ガスをあびせられたこと・・・。勿論、検挙者もあった。そのころは、学内では主に工学部が運動が盛んだったようである。

数日前に、考古学の学生であったSとチャットをしたら、彼もその日、大学でのデモに参加したと言っていた。と言うことは文学部でもやっているのか、と言うと、今はどの学部でもやっているとのこと。

勿論治安部隊がやってきて、彼は、催涙ガスを浴びたらしい。目が開けられないだけではなく、息も出来なくなってしまった、と言うが、まだそれだけでマシだったと言わざるを得ない。ほとんどの学生はその後構内から追い出されたようだが、一部にはやはり拘束されたものもあるようだ。

彼は、昨年夏に大学は卒業したが、兵役逃れの意味もあり、大学のディプロム課程に進学した。「殺すのも、殺されるのもイヤですよ・・・しかも何のために?同じシリア人を・・・」

彼は、イドリブの出身だが、このところ、やはりアレッポに家を借りて住んでいる。一週間後には母親とともにベイルートにいる兄の家に行くという。サウジアラビアで働いている別の兄がベイルートに来るので、そこで合流すると言うのだ。

そして、「実はサウジで働けないかと、兄貴に聞くつもりなんです。」と打ち明けてくれた。彼は日本に留学して考古学をやりたいと前々から言っており、イドリブでの日本隊の発掘にも参加していた。まじめで、有望な学生であった。しかし、この状況ではどうしようもない、と見切りを付けかけたようなのである。

「また、落ち着いたら、勉強始めたいですけどね。」という言葉がすごく悲しかった。

今日(10日)、ネットを開くと、レバノン国境付近でレバノン人カメラマンが銃撃を受け殺されたと言う記事が出ていた。

とっさに陸路レバノンへ行くと言っていたSを思い出した。どこへ行くにも、もはや安全は保証されないのだ。

2012-04-09

避難生活


今日(4月8日)、久しぶりに教え子のAとチャットすることが出来た。彼は、イドリブ県のアリーハに住んでいるが、先日来、このアリーハの町での攻防が激しくなっているとの報道が続いており、消息が非常に気になっていた。

状況は?と聞くと、アリーハの町は危険で住める状態ではなくなっているので、10日前から、家族と一緒にアレッポに小さな家を借りて住み始めたという。

アリーハの町では、銃撃戦、爆破、その他あらゆる混乱が起きているようである。

「僕の家族はとりあえず大丈夫ですけど、すごくいっぱい死んでいるんですよ。」と彼は極めて直接的な表現を使った。

アレッポの借家はいくらかかってるの?と聞くと月15000ポンド(約3万円)と言う。余裕のある家ではない。彼と父親が働いてはいるが、物価も上がっている折、かなり厳しい出費であることに間違いはない。

しかし、彼らはまだアレッポで家を借りられるだけマシであるという。イドリブからは多くの難民が今トルコへと逃げ出しているのだ。また、アレッポに出てきても、家が借りられず、路頭に迷っている人たちも増えてきているようだ。

もう少し詳しく様子が聞きたいと思い、スカイプは?と聞くと、この数日ダメだと言う。携帯も、私が2月にアレッポにいたときは、彼がアリーハの町に帰ると使えないことがほとんどだった。空港から最後に挨拶を、と思ってかけたときも、ついに通じなかった。

しかし、今はあの時の比ではないようだ。あのころは彼は少なくとも、アレッポとアリーハの間を行き来していた。

2週間ほど前に、亡くなった夫を記念したシリアテレビの番組に出ることになっていたと聞いていた。彼は夫がずっと目をかけて、エブラ文書の個人教授をしてきていたので、一番弟子と言うことで、インタビューを受けることになっていたのだ。それはどうなったのかと聞くと、断ったと言う。テレビに出て、顔がうつるとやばいのだと言うことだった。デモに出ているようだった。

実際、一週間前にいとこが捕まってしまったという。アレッポのど真ん中で捕まったと・・・。

こんな混沌とした状況の中で、彼はとにかく修士論文を書き始めたらしい。「いいのを書いて、先生と亡くなったハミード先生に喜んでほしい」と言う彼の言葉に目頭が熱くなるのを感じた。

2012-04-08

Sさんの涙


夫の逝去に伴う弔問の3日間が終わった数日後、世話になっている友人のSさん宅でお茶を飲んでいると、Sさんが深刻な顔をして入ってきた。

「ヤヨイ、帰国を早めたほうがいいわ。ひょっとしたら、フライトがキャンセルになるかもしれないわよ。」と言う。私も、カタール航空がフライトを停止したと言うニュースは聞いていたが、他の航空会社に関してはまだ何も起こったとは聞いていなかった。

まだもう少し気持ちが落ち着くまでシリアにいたいと思っていた私は、そうね、と気のない返事をした。

すると、彼女は少し、強い口調で続けた。「ヤヨイ、今は非常時なのよ。私には十分過ぎる重荷があるのがわかる?先の見えない状態で子どもたちのこと、自分たちの生活のことを考えなきゃいけないの。しかもあなたたちのことも、ここにいたら私の責任だと思うのよ。何かあったら、私の責任だと思ってるの。その責任がすごく重いの。葬儀は終わったのよ。なるべく早く動く決心をして。」そして、涙声になって、ソファに崩れるように座った。 

私も、奈々子も、Gちゃんもいたが、みんなびっくりして彼女のそばに寄った。あの気丈なSさんが泣いている。いつも冷静に、どんなときでも冗談を言いながらサラリと物事を納めてきた彼女が。

「疲れてるのよ。今は前みたいじゃないのよ。」

帰れるところがあるなら、ここにいることはない。状況はそこまで来ている。なのに、私は心の隅で甘えていた。何も言わずに暖かく迎えてくれたけど、彼女にはかなり負担だったのだろう。

「こんなときに、会うことになってしまって・・・。でも、いつか、前みたいに楽しく会える日が来るわ。だから、今は・・・。」と、気を取り直した彼女が言った。ごめんね、が言葉にならなかった。

あれから約2ヶ月が経つ。時折のチャットの際も、彼女はまだ元気がない。

「情勢が良いほうに動く確信はあるわ。いつかはわからないけど。でもテレビのニュース番組は見ないことにしてるのよ。暗くなるだけだから。」数日前に彼女はこう言ったが、これは彼女の家からほど遠くないところで銃撃事件のあった日の翌日だった。

2012-04-04

義弟Mの話


停電の暗がりの中で、お茶を飲みながら義弟Mの話を聞いた。

彼はホムス県内のシン地区の勤務を昨年から行っている。この地区は、ホムスのなかでは一番「戦闘」の激しい地区からは若干外れているが、しかし、生々しい様々な事例に遭遇せざるを得ない。

また、警察官である彼の立場は現在、極めて微妙である。と言うのは、所属だけを見れば政府側になるからである。しかし、彼は現政権の過ちを十分に知っており、立場を忘れてモノを言えば、現政権に嫌悪感を抱いている。

しかし、今回、好むと好まざるとに限らず目の前の「革命」を初期の段階から「取り扱う」しかなかった彼は、「問題は政府側か反政府側かということではないと思うんだ」としみじみと言う。「だってヤヨイ、あんただって、僕が世に言われているような血も涙もない政府側の殺人鬼だなんて思わないだろ?」と言って、ある出来事を話してくれた。

ある日、彼がホムスのある地区の警備に行った際、武装集団が道の両側の建物から銃を乱射してきた。彼と数人の同僚は車の下にもぐりこむしかなかった。そのときは、200発ばかりが撃ち込まれたようだが、警備側は約50発を撃ち返したのみだったという。マフムード自身は1発だけ撃ったというが、その一発も人に向けてではなく、街灯に向けて撃ったのだと言う。自分たちの居場所が街灯に照らされて相手側に知られるのを防ぐためである。「勿論、人は撃ちたくないよ。」と淡々と語り、現場と報道がかけ離れていることを訴える。

それでも警察官でいるの?と言うと、「だって、どうすればいいんだ。警察官全部が悪者じゃないし、僕は僕なりに必要な任務をしてるんだ。やめてどうなるんだ。しかもかえって、やめたことで命を狙われたりしないとも限らない。悪意を持って仕事してるわけじゃない。」
 
 そして、「理性のない武装集団がこの革命の名を借りてなぜか、革命家のような顔をしている。それが気に食わないよ。不条理がまかり通り始めている。」と彼は憂える。

彼は職務として、ホムスの状況を見ざるを得ないわけであるが、同じ家で、上階のフラットに行こうと階段を上っていた際に、狙い撃ちに合って亡くなった人の例や、ある朝起きて外に出たら、どこで殺されたかわからない人の死体が投げ捨てられていた例など、茶飯事になっているという。

惨殺死体の処理なども彼らの仕事らしく、そのたびに吐き気をもよおすらしい。「毎日、見るに忍びない死体ばっかり見てたら、肉だけじゃなくて、食欲も何にもわかないさ。」

昨年、闘争が始まった段階で、子どもたちはアレッポに疎開させ、今は妻と二人でホムスに留まっている。しかし、状況が日増しに悪くなっていっていることから、今回帰ってきたのを機会に、妻はアレッポに留まり、彼は単身赴任となるらしい。

義弟M


2月11日。

爆破事件の翌日。爆破事件の余波は、この日の明け方まで続いていたようで、朝の話題はアレッポのあちこちで夜中じゅう続いた勢力間の掃討合戦(?)の話しであった。

この日も公園のところには銃を持った者たちがいた。ちょうど夫の男性側の弔問客を迎えるテントが見える位置にいるようだった。アレッポでは中流の家で不幸があった場合、弔問客(特に男性)を受け入れるために大きなテントが張られる。普通の弔問テントで「集会」ではないのだが、人の集まる場所であると言うこともあり、見張りをしているような気配だった。

この日は弔問客を迎える最後の日である。この3日間、ただ弔問客を迎えるだけの日々であったが、かなり疲れを感じたので、別の部屋で休んでいた。目を覚ますと停電になっていた。時間は夕方7時過ぎであった。今日は停電が早いなと思っていると、ホムスで警察官をやっている夫の弟Mが帰ってきた、という知らせを受けた。

急いで出て行くと、Mが停電時用の暗い明かりの中に座っていた。夫の姉妹たちも集まっていた。彼は、夫と20歳近く離れており、まだ30代後半である。この数年会う機会がなかったが、再開がこんな形で来ようとは。

「ヤヨイ、あんたはまだいいよ。日本から来て兄貴の死に目に会えたんだから。僕は目と鼻の先のホムスにいるのに間に合わなかった。」と彼はむせび泣いた。停電で、顔があまり見えなくて良かった、と思った。夫と結婚をしたとき、兄貴に日本人の嫁さんがきたことを最初に子どものように喜んでくれたのは、このトシの離れた弟である。その彼の泣き顔を見るのはつらかった。

夫が倒れたとき、彼はすぐにでも飛んで来たかったが、非常に厳しい都市間の移動制限のため、葬儀の3日後の今日までアレッポに来ることが出来なかったという。ホムス-アレッポ間は普通、車で2時間から2時間半である。

しかし、2月現在「激戦」が続くホムスへの陸路は大変危険で、ほとんど寸断状態にある。数ヶ月前から人々はアレッポ、あるいはダマスカスへ行く際には、地中海沿いの町ラタキアへとりあえず行き、そこから空路で移動するようになっている。

しかし、この空路も、皆が殺到してチケットが思うようにとれないらしい。Mのところにようやく来たチケットも、予定より1週間以上遅いものであった。

「日本から来たヤヨイに先を越されたよ。こんなことってあるかよ。」と再び彼は言った。嗚咽を抑えているのは、暗がりでも痛いほどわかった。

2012-04-02

爆破事件の日の午後


爆破事件のあった日(2月10日)は、久しぶりの快晴であった。しかし、爆破事件は、この明るい日を一瞬のうちに暗い日に変えてしまった。

爆破現場のテレビ中継を見たり、みんなであれこれと話しをしているうちに、金曜礼拝の時間が近づいてきた。モスクは家から歩いてすぐのところにあるし、爆破事件もあったことだから、とにかく家にいたほうがいいと皆で言い合っていたところに、夫の息子が入ってきた。

「さっき、黒覆面して銃を持ったやつらが7-8人、ピックアップに乗って近くの通りを通っていったらしいぞ。親戚のxxが見たって。しかも『la illah illa allah』 (アッラーの他に神はなし)って書いた黒い旗を持ってたって言うぞ。」と言う。「それってアル=カーイダの旗印じゃない。」と誰かが言う。みんな、そうだ、そうだという。

真相は別として、なんともイヤな状況になってきたと思った。勿論、アル=カーイダが爆破事件の直後の緊張の中で、旗をおったてて皆の前をこれ見よがしに通っていくなどという愚を犯すとは思わないが、幼稚な手段であれ人心を迷わせるような輩がいると言うことであろう。

しかし、うわさはさらに流れてくる。

「バーセル・ロータリーあたりで、今銃撃戦が始まったらしい。」「空港へ行く道のロータリーでも、撃ち合いになっているみたいだ。」「ムハーファザのところでもやってるみたいだぞ。」と、次々にニュースが入ってくる。ムハーファザといえば、ここからもそれほど遠くない。男たちは、野次馬的なものも含めて、さらにいろいろと情報を交換し合っているようだった。

そのとき、義妹が、「ヤヨイ、来てごらん。」と私を窓のほうに呼んだ。何?と聞くと、家の前の公園の入り口を指して、「ほら、あそこ。シャッビーハ(治安機関に雇われた集団)。銃を持ってるのわかるでしょ?」と言った。

確かに、武装した4-5人が公園の入り口のところに立っている。彼女は、「今日は多いわね。いつも金曜日にはモスクのところとか、公園にもいるけど、今日はやっぱり多いね。」と言う。

シャッビーハは、もっと、それとはわからないいでたちをしており、銃を持たされているのは「正規」の治安要員だ、と言うことを後から聞いたが、みんなこの類の取り締まり要員を一般にシャッビーハと俗称してしまっているようだ。

いずれにせよ、いつも食糧を買出しに来ていたこの地区に、銃を持った者がいるのである。
爆破事件は勿論衝撃的なことであるに違いないが、生活圏に銃が入り込んだこと自体に、なんとも形容しがたい思いを抱いた。

いいお天気だったので、公園には子どもも数人遊んでいるのが見えたが、その横に銃を持った男たちがいる。

「金曜日になると、やつらはそこらじゅうに張り込んでいるんだ。」と言っていた夫の話を今さらながらに思い出していた。

2012-03-30

アレッポの爆破事件


2月10日。

夫が亡くなって2日後の金曜日。早朝に親族で墓参りをした。墓と言ってもまだ墓標もない土饅頭の上に、乱雑にオリーブの木の枝が置かれているだけで、なんとも殺風景である。この墓のすぐ脇に住んでいる義妹は、昨日も今日も、朝方、コーヒーの好きだった夫にコーヒーを運んで来た、と言っていた。

墓参りを済ませ、家に戻り、弔問客が来るまでに朝食を済ませようと、用意を始めた頃であった。

「ドーン」と言う大きな爆発音とともに、振動を感じ、窓ガラスのきしむ音がした。

びっくりして反射的に窓のところに寄ったら、南の方角にあるモスクの方に大きな白い煙が上がるのが見えた。煙はどんどん高く上っている。爆破?!まさか?! あの方角には大学がある。一瞬、大学がやられたのかと思った。時計を見たら、9時ちょうどであった。

みんなはおどろいて一瞬緊張したが、再び平静に戻り、朝食の支度を始めた。私は、とりあえず今見たことを大使館に伝え、無事を報告したほうが良いだろうと考え、まずは担当官の携帯に電話しようとした。

しかし、携帯は通じていなかった。何度か試みたが、通じないので、しばらく置いて、家の電話から、大使館の地上電話にかけた。しかし、金曜日で留守電になっていたので、無事を伝えるメッセージを残すしかなかった。

11時ごろようやく電気も来たので、テレビをつけると、シリアの国営放送が爆発現場の中継をやっていた。この報道で、場所は大学よりもさらに南にある治安機関の建物と、空港へ行く道にある別の治安機関の2箇所で、ほぼ同時に爆破されたことがわかった。私には一つしか音が聞こえなかった、と言うと、夫の息子は、「僕は2つとも音を聞いたよ」と言っていた。彼は外にいたらしい。

放送では、現場の惨状や被害者の遺体などが生ナマしく映し出されていた。子どもの死体もあったとのレポーターの報告に、皆、「あんなとこに金曜の朝早く、子どもがいるわけないじゃない。」と口々に言う。

皆、国営放送の言うことは常に眉にツバをつけて聞いている。勿論、爆発は確かにあった。私たちはこの目で見たのである。しかし真相がなんであるのか、誰も確かではない。

確かなのは、アレッポでもついに爆破事件が起きてしまったと言うことだった。

テレビの画面では、インタビューを受けた人たちが、この無差別テロを口々に非難している。

それを見ながら、夫の「危ないよ」という声が再び耳に蘇った。

葬儀


2月8日。

イスラム教の葬儀は、至って簡素である。

夫の遺骸が清められたことを告げられて、再び家に入ると、白い布に包まれた夫がいた。先ほどと変って顔色が若干くすんで見え、不思議なことに体はあっても「存在」を感じなかった。

布は、顔が見えるように巻かれていて、最後の別れを告げるように言われた。思わず触れようとすると、清めをしてくれた男性に、「触れてはダメです。ハラーム(禁忌)ですから。」と止められた。

悲しかったが、皆と同じように、ファタハを唱えて、また部屋を出た。遺骸はモスクに移動され、その後埋葬と言うことであった。

外に出て、奈々子と一緒に呆然と立っていたら、親戚のHが車に乗るように促してくれた。車の中で30分ばかり待っただろうか。棺を載せた車が出発したことが告げられて、私たちの車も動き出した。

しとしとと雨が降っていたが、車が進むにつれて、鈍い冬の日が雨の中に差してきた。

少し走ると、棺を載せたピックアップが前に見えた。ピックアップに載せられた棺を守るように、数人の男性が荷台に乗っていた。いつもはひょうきんな従兄弟のハミード(夫と同姓同名)が、やりきれない様な顔をして乗っているのが見えた。葬列は、殉教兵士のそれのようであった。

女性は、墓地の中には埋葬が終わるまで入れない。しかし、裏口のようなところから、夫を包んだ白い布が男たちに運ばれているのが少し見えた。

私は、ふと、夫の好きだった日本の歌を口ずさんだ。もしかしたら聞こえるかもしれない。

埋葬が終わり、夫の埋められた場所に行き、女性みんなでファタハを唱えた。アレッポ地方特有の粘土質の赤い土が、雨で湿って固まりになっているところがあった。埋め方がへたくそだわ、となぜかそんなことを思った。

あとで聞いた話であるが、イスラムの教えでは、人は亡くなると、魂は一旦体を離れ、まずは非常な高みに上り、埋葬の瞬間再び体に戻るというが、それは本当のような気がする。

亡くなってすぐに対面したときは、彼は確かにまだそこにいた。しかし、清められた体には、彼の存在を感じなかった。しかし、墓地で、歌を聞かせたいという思いにかられたのは、彼が再び戻り、私にそれを求めたからではないのだろうか、と今でも思うのである。

2012-03-27

閉塞感


今まで、先月(2月)のアレッポ滞在のことを書いてきたが、帰国後もシリア情勢が良い方向に向かっているとは思えない毎日が続いている。

三月中旬にもダマスカスとアレッポで連続爆破事件が起こり、いよいよ見境のない殺戮がこれらの二大都市にまで及んできた。コフィー・アナンらの交渉も、なんら事態を前に進めるに至っていないようであり、友人らも、明日の読めない日々を過ごしている。

先週の金曜日、アレッポ市北東部ミーダーン地区に住んでいる教え子とチャットをした。
「どう?元気?」と聞くと、「元気ですよ。私たちは大丈夫。」と言ったあと、「でも今日、家のすぐ近くで爆破未遂事件がありました。」という。「えっ」と驚く私に、彼女は平然と、「でも、爆発する前に発見されて、全然平気でしたよ。」と続ける。

『フェースブック』を見ると、彼女の友人から彼女のウォールへのポストで、「すぐ近くだったみたいだね。」というのがあった。「大丈夫なわけないじゃない。ほんとにすぐ近くだよ。」と言うと、「でも、お姉さんはあのあとスークに買い物にも行ったし。私たち、もうかなり慣れっこになってきました。」と返ってきた。

さらに、昨日、旅行代理店をやっている友人からはこんな話しを聞いた。

状況はどうかと問う私に、「治安状況とかは、君が2月にいたときより悪くなっているけど、私の商売は悲しいかな、今すごく繁盛してるんだ。」と言う。「どうして?」と聞くと、カイロ行きの便を使う客が非常に多くなっているのだと言う。ただ、と彼は続ける。「みんな片道チケットなんだよ。しかも、カイロからリビアに飛ぶんだ。」

リビアでは、革命後、いろいろなプロジェクトが立ちあがっているらしく、シリアで職のない、どちらかと言えば貧しい層の人たちが、仕事を探しにリビアに行き始めたようなのである。
 
「だから、いくら儲かっても手放しでは喜べない話しなんだよ。」「政府は、我々は十分に知ってるよ。40年付き合ったんだから。君も知ってるだろ?だけど、じゃ、反政府側はどうかって言うと、一枚岩じゃない。」イヤホンにため息が聞こえてくる。

アレッポは、春の陽気になりつつあると言うが、彼の声は低く、いつか変るであろう状況を一日一日待つしかないのだ、とつぶやいた。

2012-03-26

別れ


2月8日。

朝9時ごろ、まだ迎えが来るには早いかな、と思いつつも用意をしているところにハムドゥからの電話が鳴った。もう下に来ているという。今日に限って奈々子も連れて降りてきてくれと言うので、娘をせかして下に下りた。

通りに出ると、ハムドゥが、病院とは反対の方向に行くタクシーを止めた。「あれ、どうして」と言いかけたが、黙って乗り込むと、すぐに500mばかり先にある夫の息子の家の前で止まった。私が不審な顔をすると、ハムドゥは「降りて」と言った。「どうして」、とまた言おうとしたとき、ハムドゥが搾り出すような声で、「おじさん、亡くなったんだ」と言った。

言葉が出なかった。周りの風景が沈んでいくのを感じた。

タクシーを降りて家のほうに近づくと、夫の弟のFが歩道のところに立っていた。ふらふらと近づいていくと、Fの悲しそうな顔がうなづいた。何のしるしか、わかりたくなかった。彼に何かを言おうとしたが、声にならなかった。「行ってやってくれ」と彼が短く言った。

何がなんだか、わからなかった。奈々子がついてきているかどうかを確かめたような気がする。

何をしていいのかわからないが、機械的に階段を上る。階段を上ったところに泣き顔の息子がいた。どうしてみんな泣いているのだ。それが不思議な気がした。

家に入ると、親戚の女性が大勢いて、泣いている。夫が中央に、毛布にくるまれて横たわっていた。妹の一人が手を取って、夫のそばに寄らせてくれた。触ってみると、まだ暖かかった。まだ、何が何かわからなかった。唇に、チューブを入れたときの傷がまだ残っていた。

みんなが泣いているから、泣いた。だけど、まだ信じていない自分があった。しかし、涙が止まらない。現実感はなかった。なぜ泣いているのか、自分でもわからなかった。顔を近づけたら、懐かしいにおいがした。まだそこにいるじゃない。何も変っていないじゃない。

ふと、目を上げると奈々子が立って泣いていた。そばに寄せて肩を抱いた。

別れと言うものは、こんなに突然くるものなのか?これが別れなのか?喉から声にならないものがこみ上げてくる。

一時間ばかり経っただろうか。葬儀の用意をする人たちがやってきて、外に出るように言われた。外に出たら、ハムドゥがいた。

「昨夜、起き上がろうとしたのは、さよならだったんだろうか?わかんなかったよなあ」と言って、嗚咽した。

近くのモスクから「故人ハミード・ハンマーデのためにファタハを(コーランの一節)・・・」という呼びかけが聞こえてきた。夫の名前が他人の名前のように聞こえた。

近郊の村での話


2月7日。 

夕方、やはりハムドゥと病院へ。この日は、私は自分でも不思議に思うくらい饒舌で、昏睡状態の続く夫に話しかけ続けた。ドクターがこちらを伺っているのはわかったが、「もうちょっと」と、とりとめもない話しをし続けた。目や口が動くのは、私の話に反応している証拠だと思いつつ。口の動きは今までより、もっと物言いたそうである。

とはいえ、さすがにもう退室しなければ、と思い、「じゃ、また明日の朝ね」と言ってベッドから離れようとしたとき、夫が大きく体を動かした。医療機器の画面が、真っ赤にかわったので、私もハムドゥもびっくりして、ドクターを呼んだ。ドクターが飛んできたが、それと言った処置をせずにまたもとに戻ったので、とりあえず、もう一度夫に「じゃ、気をつけてね」と言って部屋を出た。

病院を出ると、ハムドゥは、叔母たちが家で私を待っているから、ぜひとも来てくれと言った。彼らは、病院から15分くらいの村に住んでいるが、反政府の人たちがたまにバリケードをくんだりするということも聞いていたので、ちょっと躊躇したが、少し彼女らとゆっくり話しもしたかったので、行くことにした。

今晩は、みな妹の中では一番年上のアミーナのうちに集まっていた。田舎の家に特有の、絨毯を敷き詰めた広い客間に入ると、彼女らのダンナ連中もいた。
みんなに夫の病状を聞かれ、起き上がるような素振りを見せたことを告げると、ひょっとしたら意識が戻るかも知れない、というちょっとした期待に包まれた。
ひとしきり、その話しをしたあと、やはり、今のシリアの状況の話しになる。

村でのデモの様子なども話題に上った。治安関係の者は監視しているけど、俺たちが睨みをきかしているから、めったなことはしないよ、と軽いノリで、一番下の妹のダンナが言う。「その関係者は、村の人間だからね、下手なことをすると村にいられないから、まあ、監視はしているけどね。」と言うことであった。

お茶を飲みながら、拘束されて帰ってきた友人の話、自分たちの今の状況に対する考え、日常生活への影響などの話しが次々飛び出す。彼らは自営業でもあり、昔から政府の腐敗などについてよく文句を言っていたが、今は各地での暴力行為を見聞きするにつけ、先鋭的ではないにしても「反政府」的な物言いに拍車がかかってきたようである。

また、彼らは隣村やその近辺の村は一種の独立国みたいになっている、と言っている。その話しは夫からも聞いていた。シリアという国は歴史的にそうである。現在でも表面を覆うカバーを取り除けば、モザイク状の部族社会が顔を出す。部族色の薄れているところもあるが、まだ村落部は基本的にはこの単位でコトが動いているのである。

考古学では、国家形成プロセスの研究は最も重要なジャンルである。しかし書物に書かれるセオリーは、無辜の人々の血に触れることはない。

不幸にも、生身の歴史とは、それを体験せずには済ませられないのだ、とBGMのように流れるアル・ジャジーラの報道を聞きながら思った。

2012-03-21

近くのショッピングモール


博物館から帰ると、Sさん宅は留守だった。どうしようと思ったが、娘の奈々子が、「近くのモールに行かない?」という。このモールは歩いて行ける範囲にあるので、以前はちょっとした買い物によく利用した。「でも、歩いて?大丈夫かなあ」「ま、二人だし、昼間だし、いいんじゃないの」と言うことで歩き出した。

Sさん宅のすぐ脇の道には、ちょっとした緑地があり、娘も含め、近所の子どもたちの遊び場であった。その頃の子どもたちのさんざめきを思い出しながら、モスクから降りてくる道を横切り、住宅街の中の道を抜け、洋品店の並ぶ道に出た。

しかし、店は軒並み閉まっている。午後から開くところもあるということであったが、もう2時を回っている。曇り空だったせいもあるが、なにか寒々としている。

モールに入ったが、客はまばらである。4階まであるので、まずは上から見てみようと、エスカレーターを上った。驚きだった。ここでも洋品店、化粧品店が軒並み閉まっている。店じまいをしてしまっているのだ。ここの洋品店は、以前トルコ製のものを扱っていた。制裁の影響なんだろうか。携帯関係の店だけがかろうじて開いている。

地下の食糧品コーナーに下りると、前と配置が変っており、品数がぐっと減っていた。ここでは客は私たちだけだった。なんだか来てはいけないところに来てしまったような気がした。このコーナーのカウンターには以前教え子が勤めていて、行くたびに、「先生、元気?」と笑顔で話しかけてくれた。今は、カウンターに誰もいない。

おなかが少しすいてたので、モールの1階にあるハンバーガーショップに行った。若者が数名と男女二人連れがいたが、照明も暗く、店自体の活気がないせいか、お客までが静かであった。

舞台装置はそのままで、異次元空間に入り込んだような錯覚にとらわれる。あるいは、浦島太郎?懐かしい海辺に帰ったら、誰も知る人がいなくなっていた・・・そんな感覚である。BGMが力なく鳴っている。

雨が降りそうな空模様になってきて、店内がさらに暗く感じられた。他のお客がシルエットのように見える。

頼んだハンバーガーが来た。以前と同じ、大きなハンバーガーである。だけど、のどを通らない。一緒に頼んだアイラーン(ヨーグルトドリンク)で、流し込むように食べるしかなかった。

2012-03-20

考古局にて


2月7日。朝、やはりハムドゥと娘と一緒に、大学病院に行き、夫を見舞った。相変わらずの昏睡状態だが、話しかけると目はよく動くし、口も、もの言いたげな感じで動く。もどかしい。でも、何か心通じているような気がして、少し心が緩んだ。

病院を出たのはまだ早かったので、ハムドゥが、「博物館に行かないか、局長が一度顔を見せてほしいって」と言った。局長とは先日病院で簡単に挨拶しただけだったし、他の友人たちにも会いたいと思い、博物館へと向かった。ちなみにハムドゥは、あと二人の教え子たちと一緒に数ヶ月前から考古局に勤め始めている。

博物館への道中、まちなかの店が、ほとんど閉まっているのに気がついた。11時ごろであった。午後からボツボツ開け始めるけれど、前みたいに朝から明けてる店はないと言う。店が閉まっていると、なんと町がさびれてみえることか。冬の弱々しい陽が、色のあせたシャッターに当たっている。

博物館が見えてきた。観光バスや、観光客がいないと、ここもえらく寂しく見える。シリア滞在の20年間、常にこの博物館と密接に関わって来た。アルスラン・タシュ遺跡出土の玄武岩製のライオン像が考古局棟の入り口階段の左手にひかえる。このライオン像を遺跡から運び込む際、夫は指を挟まれ、左手の中指の先が割れたままになってしまった。夫は冗談で、ライオンに咬まれた名誉の負傷だよと、この不恰好な指をいつも自慢していた。

局長室には来客があるということで、教え子たちのいる発掘部の部屋に行った。他のスタッフも数人いて、再開を喜んでくれた。教え子の一人は女性で、イドリブ近郊から通っているが、最近は週日はアレッポの親戚のうちに身を寄せていると言う。週末に実家に帰るのだが、このところ、帰れないことも多いと言う。

また、時にアレッポに出てこられなくなることがあるが、携帯が機能しないことも多く、欠勤の知らせが出来ないこともある、とこぼす。他のスタッフは、それを言い訳にサボってんだろ、とからかうが、皆事情はよくわかっている。

発掘部は、考古局の中では最も忙しい部局である。特に外国隊の押し寄せる春から秋にかけては、管轄局内外でフィールドに出なければならない。しかし、昨年から様相は一変している。外国隊は昨年の春以来、シリアでの調査活動を停止している。

以前は冬季でも、出土遺物の整理や研究のために外国人研究者がちょくちょく考古局を訪れていた。日本では書物の中でしか会うことのなかった著名な研究者たちが、よれよれの作業着を着てうろうろしているのに良く出くわしたものだ。彼らとのちょっとした会話が、どんな発掘報告書よりも豊富な情報を与えてくれ、また大きな刺激も得ることができた。現在の状況は、せっかく考古局に入った教え子たちに、そのチャンスを与えない。

2012-03-15

教え子たち(その2)


見舞いに来てくれていた学生のうち、Wは車で来ていた。送っていくと言ってくれたので、みんなで彼の車に乗り込むと、Wは、「久しぶりにみんな一緒になったんだから、うちに来てお茶でも飲まないか?」と誘ってくれた。

9時を回ったところで、以前のアレッポなら、何の問題もなく、即決で「行こう」となったはずである。しかし、今回はこの状況で、しかも前日、遅くなったことでSさんに心配をかけたこともあり、少しためらった。

だが、またいつこのような機会があるとも思えなかったので、Sさんには電話をして、寄り道をすることを伝えた。

Wは穏やかな性格の若者で、やはり修士課程で古代セム語の勉強をしている。父親は、政府系の地区委員のような地位にあり、若干他よりも恵まれた経済状況にある家庭である。しかし、彼の父親は今回の「革命」の中で、政府系の地位のために、微妙な立場に立たされているという。

車に乗ると、学生たちは、本音を言い始めた。Aは自分の町で起こっていることから考えても、政府を批判する立場だが、Wは、「正しいことをする者の側に立つよ」と「どちら側か」を明言するのを避ける。

彼の友達は、彼の父親の立場のことも考えて、Wのその態度を批判はしない。みんな、それぞれがどういう状況にあるのかということを理解し、自然に自分の意見を述べている。

状況が騒然としている場合、こういったちょっとした立場の違いが、大きないさかいになることもあるのだろうが、少なくとも彼らの話し方からは、分別のあるスタンスと言うものを感じる。個人・友人の間では、このように話し合えるのだ。なのに上のレベルでは・・、などと考え始めたとき、アレッポ南部の集団住宅の一画にあるWの家の前で車が止まった。

Wの家に入ると、Wの父親、兄、母親が総出で出迎えてくれた。シリアでは、どんな時間であろうが、客人を常に暖かく迎えてくれる。

家のなかには、パンの香ばしい匂いが立ち込めていた。「今、夜食にチーズのサンドイッチを作って食べ始めたところなんだ」と、山盛りの焼きサンドイッチを父親が運んできてくれた。甘い紅茶も「今入れたところだから」と注いでくれた。しょっぱいチーズが良くあう。

「こんなものしかなくて」と父親は恐縮していたが、闖入者をごく自然に迎えるシリア人のもてなしの心は、ここでも変らない。

日本人の友人が言っていた言葉を思い出す。「シリアはシリア人がいるからシリアなんだよね。」

熱い紅茶をすすりながら、胸が熱くなるのを感じた。

2012-03-13

教え子たち


2月6日の夕方、夫は大学病院に移った。昏睡状態は続いている。ただ、今日は話かけると目が動く。若干口も動かしたそうな素振りを見せる。ちょっとした動きに大きな望みをかけてしまう。

大学病院は、私立の病院に比べて、殺風景で雑然としている。しかし、医療設備は最新のものを入れ始めているとのことであった。15年以上前、夫の母を見舞ったのもこの病院だった。昔に比べてよくなったのだというが、薄汚れた感じの灰色の壁に、何かわびしいものを感じる。

面会を終えて、玄関のほうへ向かうと、昨年新しくアレッポ考古局長になった友人のY氏と、大学の教え子たちである数人が見舞いに来てくれていた。彼らは入室を許されなかったようであるが、私が帰ってきたことを聞きつけて、挨拶もかねて来てくれたのである。教え子たちは、私たちにとってみれば息子のような存在で、卒業後も折にふれ、会う機会を持っていた。

そのうち一人Aは、修士課程でエブラ文書(紀元前三千年紀の古代文書)に関係する主題を選んでいる。夫は大学に籍はないが、特別にAのための外部からの指導教官として指定され、面倒を見ていた。彼は、今一番状況が悪い町のひとつであるイドリブから来ている。スカイプ通話を夫とするとき、Aはたいてい横にいて、時々イドリブの状況を話してくれた。

Aから聞いたイドリブ県のアリーハの町の様子は、以前から不穏なものであった。特に秋以降、町では普通に銃撃戦があり、彼の叔母さんの家の窓ガラスに流れ弾が当たって壊れたこと、街中にある菓子屋で、政府軍と反政府軍の争いが起こり死傷者が出たこと、バスに武装した集団が乗ってきたことなど、具体的な話が多くなって来ていた。

話しを聞くたびに、大丈夫なの?と問うしかなかったが、彼は淡々と「だって、どこに行くこともできませんから。この町に家があって、家族がいて・・・。自分の町なんだから・・・。どうすることもできない、ただ、状況が良くなるのを待つしかないんです」と答えていた。そして、「近頃は、銃撃の合間を縫ってスーク(市場)へ行くコツを覚えましたよ」と彼は笑った。

町はおいしいさくらんぼで知られているが、今年はさくらんぼの季節に、街角で屋台のさくらんぼ屋を見ることができるのだろうか。

彼の母親は数年前になくなった。父親は、もうすぐ定年を迎える公務員、2歳年下の弟は病気がちである。二十歳すぎの妹がいるが、この状況では彼が一家の中心にならざるを得ないのであろう。彼自身は、学生院に在籍しながら、友人のツテでアレッポのさる事務所でアルバイトをしながら暮らしている。

夜9時を回っていた。今日はこれからどうするの?と聞くと、夜のバスはあまりに危険だから、アレッポの叔母のうちに泊まるのだ、と言った。

2012-03-10

兄妹たち


朝、10時過ぎにハムドゥに迎えに来てもらい、タクシーで病院ヘ向かう。

タクシーの料金は、普段通りだったので、「あれ、まともだね」と言うと、「ヤヨイ一人乗ってたらどうかわかんないよ。ま、みんながぼったくってるわけじゃない。今でもね」と笑った。

例によって、集中治療室に特別入室を許され、再び夫に話しかける。今朝は、眠っているのか、目が動かない。それでも呼びかける。なんとかわかってほしい。わかっていてくれていると信じていても、証がほしい。あまり呼びかけると、かえって疲れさせるのだろうか?そうであっても証がほしい。

15分ばかりたって、担当の医師に促されて、治療室を出ることになった。

治療室を出たら、夫の姉妹たちが来ていた。彼女らは昨夕、私が来るということを聞いて、いつもより遅くまで病院に残っていてくれたらしい。彼女らとも久しぶりの体面である。人懐こい「アハレーン、お帰りなさい」が今回はとりわけ心に染みた。

彼女らは、今はほとんどアレッポの一部になってしまった、すぐ近郊の村に住んでいる。生活様式はSさんの家族のように都会的なものではないが、「古きよきシリア」のひとつの典型をいまだに残している。

彼女らは、私をみると駆け寄ってきて、「兄さん、どうだった?変わりない?」と聞く。夫が「良くなっている」と私に言ってほしいのである。私が来るのを「ヤヨイが来たら、目を覚ますかもしれない」と待っていてくれたという。

簡単に今見た様子を伝えたが、それ以上のことが言えるわけもなく、ただ、大丈夫よ、というしかなかった。

病院のカフェにいたら、夫の弟のFがやってきた。悲しげだった。前よりもずっと老けたように見えた。夫とずっと喧嘩をしていたが、今回心臓発作が起きて夫が病院に運ばれたあと、見舞いに行って仲直りをしたという。

夫とダマスカスの高等裁判所の判事である彼とは、どことなく一族の主導権をめぐる確執もあったようだったが、それでも夫とは基本的に無邪気な関係であった。「兄さんは、もうだめだよな」と言うので、「まだ大丈夫。まだ遠くに行ってはいないよ」と答えた。彼は、「そう思う?」とうつろに返事をしてタバコに火をつけた。

「今晩くらいに、兄さんを大学病院に移そうと思ってる。長引くかも知れないから、この病院だと費用がべらぼうなんだ」といった。兄の病気に加え、自分の自動車学校で起こった事件、娘婿の一件、そして先の見えないシリアの状況が彼の肩にのしかかっているのが痛いほどわかった。

2012-03-08

アレッポの朝


2月6日。

なんとなく眠れない夜を過ごしたが、明け方のアザーンの頃、少しうとうとしたようだった。

8時前に、Gちゃんが起き出して、仕事へ行く用意をしている音が聞こえた。うちの娘と、小学校のときからずっと姉妹のように付き合ってくれている。昨年医学部を卒業して、大学病院に勤務し始めた。みんな気がつかないうちに成長しているんだよね、と彼女の立てる控えめな物音を聞きながら、一瞬の感慨に浸る。

キッチンに行くと、Nさんがコーヒーをいれてくれた。Nさんは建築技師だが、この一年新しいプロジェクトがない。前にやっていた仕事の始末はしてるけど、この一年、普段は家にいるんだよ、とこぼした。ワークホリックのようだったNさんからは、考えられない。

独り言のようなNさんの話を聞いていたとき、また電気が切れた。Gちゃんが「お父さん、遅くなっちゃうよ。」と玄関のあたりで呼んでいる。

このご時世で、タクシーは使わせられないからね、とNさんはGちゃんを病院に送っていっている。シリアでは、乗り物の運賃は非常に安く、タクシーも一般的な市民の足として、皆気軽に利用している。

しかし、今はこれも、女性一人で乗るのは、危ないといわれた。タクシーの皆が皆、悪いわけではない。しかし、今は万が一のことを考えなければならない。夜中でも一人タクシーに乗って、なんの危険も感じなかったのは、つい10ヶ月前のことだった。

NさんがGちゃんを病院に送っていったあと、Sさんが起きてきた。彼女は今日は遅番だが、同じ勤務時間の同僚に電話をして、一緒に病院に行く相談をしている。

「前はNが車を使ってても、私が別の車で行ってたけど、今はそれもできないし、タクシーも聞いたとおりでしょ?いろいろな小さいことが、かなりストレスなのよ」。

彼女は麻酔医で、仕事自体が非常に神経を使うものである。小さなストレスは、傍で思うより負担になっているのだろう。

彼女もコーヒーを飲みながら、「こんなときに、こんなふうに会うことになるなんてね」とつぶやく。

1月の下旬にアレッポでかなりの雪が降ったとき、彼女は雪景色の中でGちゃんやNさんとピースしている写真を送ってくれた。単純な私は、その背景にあるものを考えもせず、「私もアレッポの雪景色にジョインしたいな」と返事をした。

皆の写真の中の笑顔を思い出しながら、その背景をコーヒーと一緒に飲みこんだ。

2012-03-07

身近なアレッポの状況


夫との面会を済ませて、集中治療室を出た。

甥っ子のハムドゥが待っていたので、Sさんには娘を連れて先に帰ってもらった。彼女は、「長旅のあとなんだから、あまり遅くならないでね。停電もあることだし」と言って帰っていった。停電のことがなぜこの文脈で出てきたのかわからないまま、ハムドゥと病院のカフェに入った。

ハムドゥに、夫の今回の病気に関しての大まかな経過を聞いた。最初の発作が起こったときは、意識はあったとのこと。とはいえ、病院に運び込まれたあと、処方された注射液が、なかなか見つからなかったと言う。

シリアでは、医者の書いた処方箋をもって、おのおの薬局へ行き、薬を調達するのが普通である。「みんなして、そこらじゅうの薬局を探したんだけど、なかなか見つからなかったんだ」シリアに外国の制裁が下されてから久しいが、薬などは、制裁外だと聞いていた。しかし、やはり何らかの影響は出ているのだろう。

それから自然と現在のシリアの状況の話しになった。全般的なことはネットのニュースで知ってるだろ、日本のほうが何でも見られるからなあ、と冗談を言いながら、「実はおじさん、何回か村であった反政府デモに出てたんだ」と打ち明け始めた。

「おじさんの友達も出てた。おじさんのほうが知名度があるから目だってたんだけど、あるとき、友達のほうがつかまっちゃった。おじさんはすごく嘆いてたよ。僕は今におじさんも捕まると思って怖かった」「こんなことを言ったら、きっと心配すると思って言わなかったんだ」と彼は、以前のチャットの際に「アレッポの状況はそんなに変らないよ」と言ったことの言い訳をした。

それから、さらに身近に起こったことを聞かせてくれた。「従妹のA知ってるだろ?彼女のダンナもデモに出てて捕まって、一時拘留されてたんだ。帰ってきたときは、体中にタバコの火を擦り付けられてたよ。」

「Fおじさんとこの、自動車学校でも銃撃事件があったんだ。職員の一人が反政府だったらしくて、治安から目を付けられていた。つい最近なんだけど、治安当局が学校に来て、銃を撃ち始めたらしい。結局3人死んだらしいよ。おじさんは直接関係ないけど、自分の経営してる学校でこんな事件があって、今大変なんだ。いろいろ処理があるだろ。」

衝撃だった。自動車学校は、アレッポの郊外にあるが、周囲を囲む丘はところどころ潅木が生え、野草もよく茂る気持ちの良い場所で、ここで夫や友達を誘ってよくバーべキューをしたものだ。あんなところでも血が流れてしまった・・・。

少し、ハムドゥと長話をしてしまったようだ。10時半近く、Sさんの家に送り届けてもらい、インターホンを押したときにSさんが言ったことを思い出した。

停電。

携帯で電話をした。上からのロックも停電で開けられない。息子のH君が、降りてきてドアを開けてくれた。

2012-03-06

病院へ


友人の旦那さん、Nさんはまめな人で、建築技師という忙しい仕事を持っていながら、普段の食料品の買い物は彼がする。

この日も空港から家に向かう道で、「買い忘れたものがある」とスークに寄った。「5分だけ待っていて」と車を降り、「だけど、車に鍵をかけるよ。閉じ込めてしまうけど、悪く思わないで。誰がドアを開けるかわからないからね。」と言って行ってしまった。もともと用心深い人ではある。だけど、こんなことをアレッポでしなければならない?信じられなかった。

友人宅に着いた。ドアを開けると、Sさん、娘のGちゃん、息子のH君が待っていた。「久しぶり、お帰りなさい。」さっきまでの緊張が解けて、ハグの応酬。長身のH君は私の娘をぶら下げるようにハグした。Sさんが私の目をじっと見て、「元気?」と聞いた。彼女はこの挨拶の返事を知っている。

とりあえず荷物を置くと、夕食を用意してくれた。それほど食欲はなかったが、無理にでも食べないと、席についた。ほうれん草の炒め物とバターライス、そしてヨーグルトという、私の好きなメニューであった。料理上手なSさんの久しぶりの心づくしの家庭料理である。皆とたわいもない話しをしながら、一緒に食べた。この団欒は、前と変らない。しかし、周りを見回すと、そこここに停電時用の非常用ライトが置いてあるのが目についた。

夕食をとったあと、Sさんと娘と一緒に病院へ向かう。病院についたのは8時過ぎになっていただろうか。甥っ子が、救急入り口のところにいた。話しがしたかったが、この病院の医師でもあるSさんに促されて、中に入る。甥っ子には、あとでね、とだけ言ってSさんに従った。

集中治療室だが、Sさんの口ぞえで、簡単に入室を許された。治療室の一番奥まったところに夫のベッドがあった。

「アハレーン(やあ)」と言わない夫を初めて見た。チューブが口に押し込まれ、機器の反応で、機械的に体が動いていた。ここでも夫がこのような病の床についていることに対する現実感は全くなかった。近づいて、声をかけた。閉じた目が時々動く。話しかけたら、答えるかのように動く。さらに話しかける。

「来たよ。うそつかなかったでしょ。」

あとは何を話していたのか、わからない。娘の奈々子にも声を聞かせてあげてよ、促す。娘は「ハミードさん」と話しかけた。反応はあるような、ないような。それでも、彼はここにいると感じる。遠くへは行っていない。話しかけるしかない。体は温かい。いろいろな機器が貼り付けられているので、何もない肩の辺りをなでてみる。目が反応したような気がした。

アレッポ市街への道


荷物を受け取って、出口を抜けると、友人の旦那さん-Nさん-が向かえに来てくれていた。やはり、いつもの優しい笑顔があった。しかし今回の「元気?」「おかげさまで」という決まりの挨拶は、お互いに力のないものだった。

外に出ると、やけに埃っぽかった。荷物を車に積んでいると、駐車場係りと思われる人が近づいてきて、ここは「駐車禁止場所だ」とNさんに「苦情」を告げた。Nさんは、他に場所がなかったからね、と言い訳をしつつ、いくばくかを彼に渡したようだった。

車に乗り、アレッポ市街へ向かう。道々、Nさんが今の状況を話してくれた。彼の話から、シリアが、アレッポが、違うものになってしまっていることをじわじわと実感し始めた。これ以前から、電話やメールを通して友人や夫から聞いていた現状が、まさしく本当、いやそれ以上に劣化していることを具体的にNさんから聞くことになった。

まず、電気やガス、燃料のこと。電気は、アレッポ市内西部地区、比較的恵まれた地域は毎日4時間から5時間の停電だが、下町やいわゆる貧困層の多い地区は毎日10時間電気が止まるようである。

ガスはプロパンで、普通は公定価格は350ポンドだが、ヤミで500~600ポンド以上は出さないと入手困難。ガソリンも公定では1リットル50ポンドだが、ヤミでは75-80に達している。暖房用の燃料であるディーゼルは公定1リットル15ポンドのところが、ヤミでは倍の30ポンド、あるいはそれ以上で、ガソリンにしても、ガスにしても、ディーゼルにしても手に入ればいいほうである。

そして、市民は新聞をにぎわす銃撃戦よりも、誘拐を恐れている。極めて身近な人たちが、かなり公然と連れ去られたりしているようである。

車の盗難や、車中にあるものの盗難、破壊も頻繁にあることも教えてくれた。彼のもう一台の自慢の車は、今は貸し車庫に預け、使っていないこと、使おうと思っても、ガソリンの問題があることをひとしきり言ったあと、「何がなんだかわからなくなったよ」とつぶやいた。

私たちは、埃っぽい道路を見つめながら沈黙した。だんだんと近づいてくる町の明かりが、ひどくぼやけてみえた。発掘をやっていた当時、ユーフラテス川沿いの小さな村から数ヶ月ぶりに帰ってくると、アレッポの町の光は別世界のように明るかったのをぼんやり思い出していた。

ぼやけた町の明かりの中のモスクの緑の光に、ふと我に返った。

それでもアレッポに帰ってきたのだ。

2012-03-04

アレッポへ


2月5日、午後2時半頃、ダマスカス空港に到着。空港自体には、取り立てて緊張している雰囲気はなかった。通関も普段と変わりなく、ただ、ひとつ以前と変っていたことは、外国人がいないことだった。「外国人」のパスポートコントロールのところにいたのは、アラブ系だが、外国パスポートを持っているらしい人のみであった。

国内線のチェックインを済ませ、再びパスポートチェックを受けて、搭乗口に向かう。その前にアレッポで今回世話になる友人に電話をした。懐かしい暖かい声の「お帰りなさい」が聞こえた。しかし、そのあとで、医師である彼女は、すぐ「ハミードさん(夫)の容態は何もあれから変化がないわ。でも、良くなる見込みはほぼないと考えるしかないみたいなの。」と正直に言ってくれた。覚悟はしている。だけど、やはり心臓が凍りつくような気がした。そして、にも関わらず、望みは捨てない、そう心の中で繰り返した。

搭乗待合室に入る前のチェックは、かなり厳しかった。全ての乗客の身分証明証、あるいはパスポートを預けなければならない、と言われた。アレッポに着いたら返すと。こんなことは、今まで一度もなかった。バッグに入れていたカメラを見て、「ジャーナリストか?」と言われたので、そうではない、と答え、事情を簡単に話した。シリアでは不足しているかと思い買ってきた電池のパックは、「危険である」と押収された。そして、ボディーチェック。かなり念入りにチェックされた。

待合室では、みんな押し黙っている。飛行機に乗っても、皆静かだった。ただ、私たちの後ろの席に座った数人の若者だけが、あまり好ましくない態度で、アレッポまでのフライトの間中、声高にどうでもよいことをしゃべっていた。方言から、シリア北東部出身者のようであった。周りも、彼らの態度にいらだっていたようだ。アレッポに着き、座席を立つ段になり、ひとりの男性が、最後にたまりかねて彼らをたしなめた。

飛行機をおり空港に入ると、身分証明書の回収のための人だかりができていた。パスポートは私たちだけだったので、私たちの前にいた男性が、「パスポートはこっちだよ」と促してくれ、「そのパスポートはこの外国人のだ。早く渡してやってくれ。」と係員に向かって叫んでくれる。こういうところはかわらない。こんなシーンが少し私たちを和ませてくれる。

しかし、パスポートを受け取って、ゲートに向かいつつ、現実にもどる。あんなに帰りたかったアレッポなのに、現実に直面するのが怖かった。

シリアへ


2月4日の夜のフライトで、シリアに向かう。と言っても、シリアまでの直行便はないので、今回はアブ・ダビ乗り換えである。

エスコートをしていたエジプトからの招客K氏も、全く同じ時間の、別のフライトで帰国することになっていた。

彼を迎えに一週間前に空港に来たときは、よもや彼と一緒の日に旅立つことになるなどとは思わなかった。しかし、今思い出すに、出迎えの際、K氏を待ちながら、なんだか近々ここから飛び立つことがあるような気がしたのも確かなのである。勿論、その理由が夫の病などとは夢にも思わなかったのであるが。

娘は、2月の頭からオーストラリアに行くことになっていたが、それをキャンセルして、私に同行している。最初は私だけで、と考えていたのであるが、もしもの場合もあるとは思っていたので、彼女の方から「お母さんと一緒に行くよ」と言ってくれたときは、心の中にあった重い何かが、すっと軽くなった。シリア入国ビザも彼女に任せた。今までで一番つらい旅支度だったが、二人で背負うと、なんと軽く感じるものか、ということを、このときほど実感したことはなかった。

この一週間、まともに睡眠が取れていなかったので、普段は寝苦しい夜間飛行だが、結構熟睡してしまったようで、あっという間にアブ・ダビについた。

ダマスカス行きのフライトまで、8時間近くあった。トランジットの待合所で、何を見るともなくネットを開くと、シリア関係のニュースが目に飛び込んできた。中国とロシアが、国連でのシリア問題の決議案に二度目の拒否権を発動。またなのだ。それぞれの国が、それぞれの国の利害を考え、動くのはわかっている。しかし不条理である。ユーチューブのビデオの一場面が蘇る。銃撃戦の流れ弾に当たったのか、死んだ10歳くらいの息子をかき抱き、「中国よ、ロシアよ、拒否権発動、ありがとうよ。これが拒否権の成果だよ。」と慟哭する父親。子どもの、弾を受けたわき腹には、血がこびりついていた。

死がこれほど市民の身近に迫ったシリアを、私は経験していない。10ヶ月前の4月、私はシリアで、テレビロケの仕事を手伝っていた。若干緊張が高まりだしていたときではあったが、はしかのように一過性で通り過ぎるもののように感じていた。

まだ、去年はシリアに春があった。春の暖かい日差しを、単純に喜ぶことができた。アネモネがいつもの春のように赤い花を咲かせていた。しかし、今は、あのアネモネの濃い赤が、なんと象徴的に感じられることか。

時間が来て、ダマスカス行きのフライトの待合室へ向かった。そこでは、なにか、皆押し黙っているような気がした。

2012-03-01

不思議なこと

1月31日の早朝、と言ってもまだ3時前に、シリアの夫の甥っ子に電話した。昏睡状態でも、聴覚は残っていると言うことを読み、せめて、私の声を夫が聞いてくれれば、と思ったのである。夫は集中治療室にいるが、友人の医師が勤めている病院である。彼女に頼んで、甥っ子に集中治療室に入ることを許可してもらい、携帯を耳のところにあてがってもらえばいい。そう思い、友人の医師にメールをしたら、okの返事が返ってきた。

甥っ子にその旨を告げ、電話を待った。約1時間後に電話が鳴った。「話して」甥っ子に促され、必死で話した。わかる?私、ヤヨイ。大丈夫だよ。と言ったあと、「数日後に行くからね、絶対アレッポに行くからね。会えるよ。」と何回も繰り返した。電話を切ったあと、甥っ子に礼を言おうと、数分後に再び電話をした。

そのときに不思議なことが起こったのだ。電話が受信されて、耳に飛び込んできたのは、夫のイントネーションで、英語で「危ないよ」という声だった。そのあと、甥っ子が「どう?しゃべった?これで少しはほっとした?」と聞いてきた。礼を言って、電話を切ったが、あの声はなんだったのか?声は少し若く聞こえたが、まさしく夫の話し方だった。ましてや、あの文脈で、甥っ子がそんなことを、しかも英語で言う筋合いもない。あれは、どう考えても、私の「アレッポに行くよ」と言った言葉への返事である。元気なとき、「アレッポに行きたい」と言った私に、いつも「今は危ないよ」と言っていた、彼の受け答えそのものなのである。

ちなみにアレッポで、甥っ子に会ったとき、このことを確認した。彼は、「え?英語で?そんなこと言わないよ、他に誰もいなかったんだし。」ときょとんとした。

私の「行くよ」と言う言葉に、夫が答えてくれたとした思えない。但し、甥っ子の口を借りて。そうとしか考えられない。そして、あんな状態でありながら、私を気遣ってくれていたのだ。

ニュースは、シリアでの殺戮が依然として続いていることを伝える。アレッポでも死者が出たといううわさも、耳に入ってきていた。

夫の「危ないよ」と言う声が、今でもずっと耳に残っている。

2012-02-25

平和記念公園に思う


21エジプトからの招客を広島にエスコートする。

シリア入国ビザのことを娘に頼んで、羽田から飛行機に乗る。娘も予定していたオーストラリア行きを直前にキャンセルして、私と一緒にシリアに行くことになった。

広島でも雪が舞っていた。昼食を済ませ、平和記念資料館を見学し、被爆者の方の話を聞く。14歳のときに被爆したKさんは、淡々と経験を話してくれた。エジプト人のK氏は、いかにして苦しみに打ち勝ったかという質問をした。「悲しむヒマがなかったですからね。父は被爆の2年後に亡くなり、母も寝たきりで、3人の弟を文字通り『食べさせ』ないといけんかったですから。」K氏はさらに、世界へのメッセージは?と尋ねた。Kさんは「戦争はとにかくやめてください。」と静かに答えた。

講話室を出たときK氏は、つぶやいた。「復讐という言葉はないんだ。」惨状を資料館で見たあとでの、Kさんの静かな、しかしなにものより強いメッセージは、K氏のなかでは、まだ整理できていないようだった。戦後、平和への願いをこめて、この場所は「平和記念公園」と名づけられた。「原爆公園」ではなく。この命名をK氏はどう思っただろうか?

その後、K氏のかねてからの希望で、原爆犠牲者に献花を行った。花を献花台に挿し、平和の火と見ていると、シリアでの現在の「内戦」を否が応でも思い浮かべてしまう。「平和」と言うならば、シリアは私のいた22年間は、極めて平和だった。私が最初にシリアに行ったときは、まだモノがそれほど豊富ではなかったが、その後、徐々に、生活が「豊か」になっていくような気がした。中流でも車が買えるようになり、携帯が普及し、町ではレストランで食事を楽しむ層も増えた。人々の服装も垢抜けしてきた。

あの「平和」はしかし、見せ掛けだったのか。最終的に自由な表現には制限があった。車に乗って、携帯で話して、少ししゃれた服を着ることができるようになっても、欠けているモノがある。この「平和」を超えて、さらに求めるものがある。

平和を願う気持ちと、自由を願う気持ち。この二つが相反する事象になって進行している。

2012-02-24

アラブの春?


129日夕方、私はエジプトからの招客のエスコートを請負っており、成田に出迎えに向かった。

成田への電車の車窓が、薄昏から徐々に暗くなるのを見つめながら、この一週間のスケジュールよりも、いわゆる「アラブの春」という言葉をぼんやり反芻していた。これより先に訳する機会のあったビデオテープの中で、インタビューに答えたチュニジア女性が、「春」と言う表現ははあまりにも楽観的だわ、犠牲者のことを考えたら、こんな命名は私は受け入れられない、と言っていた。

成田に着き、ネームカードをもち、到着ゲートで招客を待つ。新生エジプトは、衝撃的な元大統領ムバラクの退陣を経験した後、今身もだえしながら歩き始めている。シリア情勢と、アラブ全体の動きを重ね合わせながら、出てくる人をチェックする。

恰幅のいい、しかしアラブのどこの町にもいるような中年の男性が出てきた。K氏である。簡単に挨拶を交わすと、彼は私がシリアに長年いたことをなにかの資料で見たのか、「私の妻もシリア人ですよ。今のシリアの状況を妻と一緒にいつも案じています。」と、言ってくれた。これをきっかけに、都内のホテルに着くまで、エジプトの現在の情況や、シリア情勢に関して、どちらが語るでもなく語った。

家に戻り、明日からの予定を確認しつつ、フェースブックを開けたら、夫の甥っ子からのメッセージで、電話をしてほしい、と彼の電話番号が書かれていた。なぜかなと思いつつ、明日は早い、電話はせずにベッドに入り、少しうとうとしかけたときに携帯がなった。妙な番号が目に入った。こんな夜中に、と思いながら出ると、件の甥っ子であった。

「何でもないんだけど、おじさんが具合が悪くて入院した。」という。胸騒ぎがして、携帯を持つ手が震えた。「何でもないって、入院ってどういうこと?」「今どこにいるの?病院にいるなら、話しをさせて」とだんだん高くなる自分の声に動揺しながら、立て続けに叫んでしまった。彼は口ごもって、「おじさんは誰とも話せないんだ。集中治療室にいる。」と言う。いいほうに解釈しようとした。「中に入らせてもらってよ、日本の奥さんが話したいって言ってる、ってお医者に頼んでよ。」と無理を言った。彼は、短く「おじさんは昏睡状態なんだ。」と言った。

「アラブの春」と言う標語が、このとき私の中でも、残酷な響きを持って聞こえた。