先日、友人の女医、Sさんと2日続けてチャットできた。最初の日は、彼女の娘、Gちゃんが今夜パリに発つ、という日だった。夜中の2時の飛行機だけど、空港までが危ないわ、と心配していた。
次の日に聞くと、無事に旅立ったと言う。「これで彼女はとりあえず安全なところにいることになったわ」と安堵しているようだった。
でも、彼女を送っていった夜中は、近くの村を攻撃するロケット砲の光がよく見えたわ、と言っていた。音も結構だったから、なんとなく眠れなかったと。
そして、「私たち、移住することを考えているの」という。え?フランスに?と聞くと、娘と息子はフランスに、私たち夫婦はトルコに行こうと思っているのだと。「子どもたちはまだ将来があるし、そういう意味では、フランスにはとりあえずツテもあるし」
「私たち夫婦はフランスで、何が出来るわけでもないし」と続ける。でも、トルコに行くと、医者を続けることは出来ない、とも。
じゃあ、何をして生きていくわけ?と聞くと、「まずは、トルコ語でもマスターするわ。ま、そうは言っても、まだ決定したわけじゃないのよ」
彼らには、他の家庭よりは余裕がある、だからこそそんなことも考えるのかもしれないが、家族一緒にフランスで暮らすのは、やはり負担が大きすぎるのだろう。また、トルコであれば、近い。家のこともそれなりに気になるだろうし、帰ろうと思えば、すぐに帰れなくもない、そんな勘定もあるのかもしれない。しかし、問題は、彼女らまでが、国を離れることを考え始めているということだ。
ついこの前、夫の弟で、警察官をしているMが家族と一緒にトルコへ「逃げた」と聞いた。彼に関しては、「政府側」と見られ、身の危険を感じ出したという背景がある。
この話しをしてくれた夫の娘Oは、もう一生おじさんに会えないかもしれないと泣きそうだった。捕まった従兄弟達もまだ戻ってきていない。
教え子のことも気になる。エブラ語をやっているAにメッセージを残しておいたら、返事が来ていた。なんと、彼ら家族は再び、アリーハ(イドリブ)に戻ったらしい。やはりアレッポでは家賃の支払いなどが大変だったのだろう。しかもアレッポも近頃安全なわけではない。だけど、イドリブよりはましだろうに。
彼は書いていた。「パンを買いに行くにも命がけです。毎日死者のでない日はない。街のそこら中がめちゃくちゃになって、そこら中で銃や爆発音が聞こえます。だけど、他に選択の余地はないので、自宅に戻りました。神様に祈っていてください」と。
胸のつまるような思いがした。
このメッセージを読んだあと、旅行代理店のJさんからスカイプ・コールが来た。他の家は、ネットの具合が悪くて、チャット以外はほとんど出来ないが、彼のところは、商売柄、常にボイス・コールが出来るようだ。
彼に、女医Sさんの話をしたら、「ああ、その話なら知ってるよ。だって、彼女僕のところで娘さんのチケット買ったんだから。そのとき、そんな話もしてたね」と言ってくれた。
あなたはどうするの?と言うと、「僕は勿論残るよ。勿論仕事もあるけど、それ以上に僕はこの社会に存在するという責任がある。みんな事情があって外に出て行く、それは仕方がないけど、みんないなくなったら、シリアの社会がなくなるじゃないか。僕の場合は、ここにいるということが、今のご時世、僕のシリアに対する責任だと思ってるんだ。だけど、出て行く人を非難はしないよ。彼らなりの十分な理由がありすぎる。みんな好きで出て行くわけじゃない。」
「1965年以降、シリアの社会は、ゆがめられてきた。この年号の意味するところ、わかるだろ。あれ以来僕らは疑心暗鬼で生きるようになった。勿論、それ以前と変らない部分もあったわけだけど、社会の隅々がゆがみ始めた。「疑う」ことでね。我々の間に不信を植え付けた(政府の)責任は重大だ。僕は65年以前を知っているが故に、それをより強く感じる。」
「でも、僕たちはそれなりにやってきた。そして、今。出て行かざるを得ない人は、そうするより他ないんだ。これが、この40年間の一つの結論なのかもしれない。」
彼も、何か吐き出したかったのか、いつもより饒舌だった。スカイプでこんなこと言っていいのかしら、とも思ったけど、彼は関知していないようだった。
そして、「きのう、刑事警察のとこ、ほらここから100メートルのところで結構な爆破事件があって、クリスチャンのおばあさんが亡くなった。かわいそうに。だけど、アレは、その前後のことから考えて、やらせだね。はっきりしてるよ。」と。
アレッポの20世紀前半のことを知りたかったら、これこれという本を読めばいい、と数冊の本の題名を私に教えてくれ、いつになく長いスカイプ・コールを終えた。